from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

マインドフルネスとフォーカシング

 この3月に創元社から『マインドフル・フォーカシング』という本が出た。アメリカのフォーカシング指導者でチベット仏教に造形の深いDavid Rome氏が満を持して著した本だ。私のフォーカシングの師匠である日笠摩子先生と友人の高瀬健一氏が訳してくださった。
 マインドフルネスは身体、感覚、心、心の対象にひたすら注意深く気づいていく方法だ。そこには思考は介在しない。そして表現もしない。ただ気づくのである。一方フォーカシングはある事柄にまつわる独特の身体感覚(フェルトセンス)に気づき、そこから表現を開始する。うまく表現できればフェルトセンスは心地よい方向へ変化し、時には消滅する。
 David Romeはマインドフル・フォーカシングを一人で瞑想的に行うフォーカシングとして実践しているようだ。やり方としてはまず、瞑想的にフェルトセンスに気づいて、そこからは思考モードを入れながらフェルトセンスの意味するところに閃いていくという方法である。
 これは私も何十回とトライした方法ではあるが、あまりうまく行ったことがない。もちろんDavid Romeも難しさを指摘している。
 マインドフルネスを深めていくと、それは思考とは水と油のように交じり合わないものであることがわかってくる。しかしフェルトセンスに気づくことは容易である。そして、ここはちょっとした発見なのだが、フェルトセンスへの気づきを深めていくと、それは表現することなしに変化し消滅していくのである。だからちょっとしたトラウマのような不快なフェルトセンスに悩まされいている場合にはこれだけで十分ということになる。これはフォーカシングの創始者ジェンドリンも予想しなかったことではないだろうか。
 だが、やはり表現によるフェルトセンスの意味するところの理解は非常に重要であると思う。私たちは生き、その生き様を通して日々表現している。フォーカシングを知る人は今の生き方、今の表現が本当に自分本来のものであるかどうか常に、極端に言えば毎秒ごとに確認している。何かを考えたとしても、その考えがフェルトセンスを忠実に表現しているかどうかを必ず確認するのである。生きている人間にとって、これほど重要な事はない。もし一人フォーカシングするのであれば、絵を描きながら、あるいは文章を書きながらのほうがずっとやりやすいだろう。それどころか少しフォーカシングの心得があれば、絵を描くこと、文章を書くことがフォーカシング的にならない方が難しい。
 しかしマインドフルネスはやはり仏教の根幹をなすものだけあって、死を見据えた修行なのだ。考えることさえも「苦」であることがゆくゆく体験される。すべてのものは生じては滅することを鋭い集中力を伴った観察力で見抜き、やがては生じるものが何も無い境地を目指すのであるから、マインドフルネスというのは恐ろしいほどに冷徹なのである。だがこれによって一切の悩みが消えることは確かである。
 今私はマインドフルネスを突き進んでいるが、まだ当分生きなければならない。マインドフルネスとフォーカシングは車の両輪である。決して融合するものではなさそうだ。車の両輪として平行に回転してくれればいいのだが、もしかしたら別々の方向へ走りだしていけば、私の身は2つに引き裂かれてしまいかねない。そうなったら迷わず、マインドフルネスを取るだろう。フォーカシングがマインドフルネスについてきてくれる間、つまり私が迷いの中に生きている間は両輪となってくれるだろう。
 ここで私は初期仏教が変遷を遂げて大乗仏教に至った経緯のことを思い出す。例えば浄土宗の根本経典である無量寿経に、「人々を皆救うまで私は解脱しない」という法蔵菩薩の決意が高らかに何度も繰り返される。如来にはならず菩薩に留まるぞという決意とも言える。法蔵さんもきっとフォーカシング的に生きられたのだろうなと勝手に親しみを感じる。

こころの天気瞑想

 今日のヨーガ教室では「こころの天気瞑想」を実践していただきました。アーサナを45分行って、呼吸法を5分、その後次のように教示しました。
「気持ちをうまく表現できるとスッキリするものですが、言葉ではなかなか表現できないし、伝える相手がいないことも多いもの。しかしイメージだと割と容易に表現できます。しかも天気による表現は気持ちを表すのにとても適しているのです。鐘の音と共に、今の気分や気持ちを天気でイメージしてみましょう」
 そして瞑想後は次のようにお話ししました。
「普段の瞑想では雑念が湧き起こることが多いのですが、イメージを使った瞑想は右脳が働くため、左脳が抑制されてあまり雑念が起こらなかった人が多かったのではないでしょうか。左脳は言語を司るのですが、言葉で表現できることはそれほど多くないし正確でもありません。天気で表すと、瞑想中にその天気がじわーと変化していくのも感じられたではないでしょうか。それによってもしかしたら何か自分の今の状態について気づきを得られたかもしれませんね。」

母子のお散歩瞑想

 先日はヨーガ教室で「犬の散歩」をイメージした瞑想指導をしたのですが、今日は少し“格上げ”して犬から幼児になってもらいました。
「あなたは幼児です。あっちにとことこ、こっちでしゃがみ込んで、道ばたの興味深い虫や草花に気を取られます。そばにお母さんがいて、静かに見守っていてくれます。」
 瞑想中はいろんな思いが出てきて止まらないものですが、それを“幼児”に喩えてみました。幼児は(犬もですが)愛すべき存在で、また心のエネルギーそのものでもあります。無理にこれを止めようとするのは瞑想を難しくする元です。
 母親は幼児をやさしく見守ります。そして声がけします。
「虫がいたね」
「きれいな花だね」
 そう声がけしてもらうだけで、幼児は満足して、やがて母親にだっこされて寝てしまい、母親には優しく幸せな気持ちだけが続きます。
 瞑想中にどんな思いが出ても、同じように見守る気持ちで声がけするもう一人の自分(プレゼンス)がいてくれれば安心です。

前世で叶えられなかった欲求が・・・

 月例の「ヨーガ読書会」を行いました。本は『ヨーガといのちの科学』by スワミ・チダナンダ師。
 今日のところは人間を構成する3つの体について。
 一つは肉体。これは「粗雑体」と呼ばれます。二つ目は「微細体」。気、思考、理性などもヨーガ的には一つの“からだ”なのです。三つ目は「原因体」。“原因”というくらいですから、私たちがこの世に生まれてきた原因をつくっている“からだ”です。これには3つあり、一つは前世からの業(ヴァーサナ)、前世からの印象(サンスカーラ)、そして前世に果たせなかった欲望なのだそうです。
 参加者から、ゲームばっかりしてひきこもっている若者にはどういう前世からの欲求があるんだろうねという話題が出まして、私は、
「前世では忙しすぎて、楽したいという欲求が叶えられなかったからではないでしょうか」と答えておきました。どうなんでしょうね。もしそんな答で「ああ、そうか」と楽になる人がいるならこれも正解なのでは?
 ヨーガの哲学は分析的だから原因論、因果論に陥りがちなところがあり、その結果、「とにかく修行」という指向を招くなあと思います。
 もうちょっと気楽がいいんですけどね。私的には。

犬も歩けば

十牛図」をご存じだろうか。禅の悟りのプロセスを表すとされている。
 これにヒントを得て、マインドフルネス・ヨーガ流に瞑想の方法を犬の散歩の様子に喩えて説明してみよう。
 飼い主Aは道草したがる犬を無理に引っ張り飼い主に従わせようとする。
 飼い主Bは逆に犬の方が主導権を持っていて、急に走り出す犬に引っ張られたり飼い主はさんざんな目に遭っている。
 飼い主Cは犬の気持ちを良く理解し、犬も飼い主の気持ちを察しているので散歩もスムース。
 さてここに登場する犬は私たちの「心」、飼い主は心をコントロールしようとしている「意志」。瞑想すると心は綱を外された犬のようにあっちへうろうろ、こっちでクンクン。定まるところを知らず、終いには居眠り。飼い主Bはこんなワンちゃんに連れ回されているだけ。「こんなことではいけない」と考えて何とか集中しようとがんばるのは飼い主A。呼吸を数えてみたり、マントラを唱え続けてみたりする。それはそれで瞑想したような気分になる。
 飼い主Cは犬がクンクンし始めたら「ああ、今ここでクンクンしたいんだね」と理解的、そして受容的。犬が歩き出したら「そうか満足したんだな。よし次はどうしようか」と常に犬の動きに寄り添う。Bのように振り回されているわけではない。次第に犬は満足感を得て、自然な集中状態に入る。犬も飼い主もとても充実した感じで、まさに「人犬一体」の境地。これが本来のマインドフルネス。
 
ちなみに十牛図についてはhttp://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm に解説されている。

フォーカシングとマインドフルネス

 昨年、長野県の戸隠での「フォーカサーの集い」にて「フェルトセンス再考」というタイトルで出店したところ15名ばかりの方がおいでくださり、熱い議論が展開した。続く大正大学で行われた日本人間性心理学会でのシンポジウム、「仏教と心理学が学び合う」ではフォーカシングと仏教の接点について述べ、その後マインドフルネスについてシンポジスト及びフロアの方々と話し合った。あれから一年。最近の考えをまとめておきたいと思う。

フォームド・フェルトセンス
 まずフェルトセンスだが、私は“痛み”や“別人格”、“トラウマ”、“インナーチャイルド”など臨床上現れ、よくフェルトセンスと間違われるものを「フォームド・フェルトセンス(formed feltsense)」と名付け、ジェンドリンの定義する本来のフェルトセンスと区別して考えることを提案したい。
 フェルトセンスが直接照合によって新鮮に形成されるものであるのに対して、フォームド・フェルトセンスは比較的長期間身体の中にうっとうしく存在していて、直接照合を必要としない。しかしフェルトセンスと同様に複雑性を持ち、何か新しい意味を秘めてはいる。ユングが「コンプレックス」と呼んだものとフォームド・フェルトセンスは恐らく同じだろう。
 フォームド・フェルトセンスは、過去のある状況において適応的な対応が為されず、その後も同じ状況において不適切な認知と行動をパターンとして繰り返した結果、慢性的にフェルトセンスが立ち上がって“しこり”のようになってしまったものと考えられる。それは話を聴いてもらえない子どものように、一つの、或いは複数の不機嫌な“人格”として身体の中に居座っている。ちなみにジェンドリンは「構造拘束」という概念を当初から提出しているが、その中にフェルトセンスが閉じ込められているというニュアンスはあるのだろうか。
 昨年の集いの出店に参加された方々に確認した結果、フォーカシング経験年数の短い方ほど、このフォームド・フェルトセンスを「フェルトセンス」と捉えている傾向にあった。無理もないことだと思う。初めてフォーカシングセッションを受けて、からだの感じを問われれば、まずフォームド・フェルトセンスを感じることになるのだから。
 2011年、愛知教育大で行われた日本人間性心理学会のワークショップでキャンベル・パートン氏は、「からだの感じ」と問われたときと「ある状況におけるからだの感じ」と問われたときでは何か違うのだということを参加者に体験的に示してくれた。もちろん後者の問われ方において本来のフェルトセンスが立ち上がりやすくなる。この違いを理解することの重要性はこれまであまり強調されてこなかったのではないだろうか。

「無我」ということ
 さて、仏教においては人間を丸ごと一つのフォームド・フェルトセンスと捉え、これを「我」と称している。少し考えやすいように、人間は複数の小さなフォームド・フェルトセンスが集まってあたかも大きなフォームド・フェルトセンスのようになっていると仮定してみよう。それならば壮大なフォーカシングが施されることでこれを「無我」に至らしむることができるだろうか。また坐禅ヴィパッサナー瞑想などが壮大なフォーカシングに相当するというようなことが言えるのだろうか。
 「無我」とは「存在の核となるものなどない」ということ。すなわち「全てのものは関係によって現象的に生じている」という仏教の根本理念である。ジェンドリンもまた独自にここにたどり着いている。その昔、インドでは人間の核は「アートマン(真我)」と信じられていて、それが輪廻転生の論拠だったのだが、釈尊が現れ「そんなものはないよ」と一蹴した。これは当時の哲学的大革命だった。
 多くの人が“アイデンティティ”とか“魂”にこだわりを持ち、それを核とし、それを拠り所として生きようとするが、その拠り所を失ってしまう事態が時折生じることがある。その拠り所すら実はフォームド・フェルトセンスだったのだと体験するところまでフォーカシングを徹底すれば、無我も現実味を帯びてくる。
 無我の人は、ある状況にあってはそこで生じるフェルトセンスに従って適応的に考え行動し、別の状況では別のフェルトセンスに従うのみである。フォームド・フェルトセンスが片付くに連れ、フェルトセンスから暗黙の意味を汲み取って、それに従うことがスムースになることだろう。無我の人はいわゆる“あるがまま”であり、フォーカシング的に言えば、「体験過程そのもの」ということになる。

マインドフルネスとフォーカシングの関連
 坐禅ヴィパッサナー瞑想については膨大な前置きが必要となるので、簡単には語れない。ここではマインドフルネスについてフォーカシングとの関連を考えてみたい。
 まずフォームド・フェルトセンスだらけの状態では長く静かに座ることが難しいだろう。5分座ることさえ苦痛に感じる。それでもヨーガなどを組み合わせることで、身体的なフォームド・フェルトセンス(凝り)がほぐれ、多少座れるようになる。心のフォームド・フェルトセンスを無視するようにすれば、気持ちよさに浸ることができるし、呼吸やある程度の想念に対してマインドフルにいられるだろう。
 人間はフォームド・フェルトセンスの寄せ集めと仮定したが、実際には隙間(スペース)が存在するようだ。喩えていえばスペースが青空で、フォームド・フェルトセンスは雲である。マインドフルネスとは、このスペースにとどまりつつ無批判的に内的な現象を観察し、ただそれに気づいていることである。無批判的とは、できるだけものを考えないということでもあり、フォーカシングのような言語化、象徴化はマインドフルネスにおいてはなされない。
 また安楽に座って行っているマインドフルネスでは、その観察対象はフェルトセンスではない。「ある状況におけるからだの感じ」というような条件をつけた観察はしないからである。スペースがまだ狭い段階でのフォームド・フェルトセンスの観察も難しい
 敢えて言うなら、マインドフルネスではスペース部分の体験過程そのものを観察し、体験過程そのものとしてそこに居ることを実践しているのではないだろうか。スペース部分が広ければ、からだの広い範囲でそれが起こり、狭ければ狭い範囲で起こる。狭いなりにやっていれば、だんだんスペースが広がるだろうか。フォーカシング(クリアリング・ア・スペースも含めて)抜きにそれはないと私は考える。仕事やクライアントと向き合いながらマインドフルネスでいることができるなら、フェルトセンスを観察しつつ、言語化しつつ、ということになるだろう。それによって私たちは”あるがまま”でいられるだろうし、スペースも広がっていくに違いない。
 フォームド・フェルトセンスに関しては、他者のマインドフルな観察眼(プレゼンス)を借りながら向き合っていかざるを得ないだろう。雲の中に居ながら雲は見えないのである。ただ、文章に表したり、絵を描いたり、夢日記をつけたりすることは、フォームド・フェルトセンスを自分で観察する良い手段ではある。
 このようにして広いスペースを確保していきつつ、スペースを耕して体験過程のままで居られるようになること、私たちのだれもが漠然と向かっていきたいと願っている方向というのはそんなふうに言えるのではないかと私は今のところ考えている。
(日本フォーカシング協会ニュースレター 2014年11月号に投稿したものです)

2014年05月30日のツイート