from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

フォーカシングとマインドフルネス

 昨年、長野県の戸隠での「フォーカサーの集い」にて「フェルトセンス再考」というタイトルで出店したところ15名ばかりの方がおいでくださり、熱い議論が展開した。続く大正大学で行われた日本人間性心理学会でのシンポジウム、「仏教と心理学が学び合う」ではフォーカシングと仏教の接点について述べ、その後マインドフルネスについてシンポジスト及びフロアの方々と話し合った。あれから一年。最近の考えをまとめておきたいと思う。

フォームド・フェルトセンス
 まずフェルトセンスだが、私は“痛み”や“別人格”、“トラウマ”、“インナーチャイルド”など臨床上現れ、よくフェルトセンスと間違われるものを「フォームド・フェルトセンス(formed feltsense)」と名付け、ジェンドリンの定義する本来のフェルトセンスと区別して考えることを提案したい。
 フェルトセンスが直接照合によって新鮮に形成されるものであるのに対して、フォームド・フェルトセンスは比較的長期間身体の中にうっとうしく存在していて、直接照合を必要としない。しかしフェルトセンスと同様に複雑性を持ち、何か新しい意味を秘めてはいる。ユングが「コンプレックス」と呼んだものとフォームド・フェルトセンスは恐らく同じだろう。
 フォームド・フェルトセンスは、過去のある状況において適応的な対応が為されず、その後も同じ状況において不適切な認知と行動をパターンとして繰り返した結果、慢性的にフェルトセンスが立ち上がって“しこり”のようになってしまったものと考えられる。それは話を聴いてもらえない子どものように、一つの、或いは複数の不機嫌な“人格”として身体の中に居座っている。ちなみにジェンドリンは「構造拘束」という概念を当初から提出しているが、その中にフェルトセンスが閉じ込められているというニュアンスはあるのだろうか。
 昨年の集いの出店に参加された方々に確認した結果、フォーカシング経験年数の短い方ほど、このフォームド・フェルトセンスを「フェルトセンス」と捉えている傾向にあった。無理もないことだと思う。初めてフォーカシングセッションを受けて、からだの感じを問われれば、まずフォームド・フェルトセンスを感じることになるのだから。
 2011年、愛知教育大で行われた日本人間性心理学会のワークショップでキャンベル・パートン氏は、「からだの感じ」と問われたときと「ある状況におけるからだの感じ」と問われたときでは何か違うのだということを参加者に体験的に示してくれた。もちろん後者の問われ方において本来のフェルトセンスが立ち上がりやすくなる。この違いを理解することの重要性はこれまであまり強調されてこなかったのではないだろうか。

「無我」ということ
 さて、仏教においては人間を丸ごと一つのフォームド・フェルトセンスと捉え、これを「我」と称している。少し考えやすいように、人間は複数の小さなフォームド・フェルトセンスが集まってあたかも大きなフォームド・フェルトセンスのようになっていると仮定してみよう。それならば壮大なフォーカシングが施されることでこれを「無我」に至らしむることができるだろうか。また坐禅ヴィパッサナー瞑想などが壮大なフォーカシングに相当するというようなことが言えるのだろうか。
 「無我」とは「存在の核となるものなどない」ということ。すなわち「全てのものは関係によって現象的に生じている」という仏教の根本理念である。ジェンドリンもまた独自にここにたどり着いている。その昔、インドでは人間の核は「アートマン(真我)」と信じられていて、それが輪廻転生の論拠だったのだが、釈尊が現れ「そんなものはないよ」と一蹴した。これは当時の哲学的大革命だった。
 多くの人が“アイデンティティ”とか“魂”にこだわりを持ち、それを核とし、それを拠り所として生きようとするが、その拠り所を失ってしまう事態が時折生じることがある。その拠り所すら実はフォームド・フェルトセンスだったのだと体験するところまでフォーカシングを徹底すれば、無我も現実味を帯びてくる。
 無我の人は、ある状況にあってはそこで生じるフェルトセンスに従って適応的に考え行動し、別の状況では別のフェルトセンスに従うのみである。フォームド・フェルトセンスが片付くに連れ、フェルトセンスから暗黙の意味を汲み取って、それに従うことがスムースになることだろう。無我の人はいわゆる“あるがまま”であり、フォーカシング的に言えば、「体験過程そのもの」ということになる。

マインドフルネスとフォーカシングの関連
 坐禅ヴィパッサナー瞑想については膨大な前置きが必要となるので、簡単には語れない。ここではマインドフルネスについてフォーカシングとの関連を考えてみたい。
 まずフォームド・フェルトセンスだらけの状態では長く静かに座ることが難しいだろう。5分座ることさえ苦痛に感じる。それでもヨーガなどを組み合わせることで、身体的なフォームド・フェルトセンス(凝り)がほぐれ、多少座れるようになる。心のフォームド・フェルトセンスを無視するようにすれば、気持ちよさに浸ることができるし、呼吸やある程度の想念に対してマインドフルにいられるだろう。
 人間はフォームド・フェルトセンスの寄せ集めと仮定したが、実際には隙間(スペース)が存在するようだ。喩えていえばスペースが青空で、フォームド・フェルトセンスは雲である。マインドフルネスとは、このスペースにとどまりつつ無批判的に内的な現象を観察し、ただそれに気づいていることである。無批判的とは、できるだけものを考えないということでもあり、フォーカシングのような言語化、象徴化はマインドフルネスにおいてはなされない。
 また安楽に座って行っているマインドフルネスでは、その観察対象はフェルトセンスではない。「ある状況におけるからだの感じ」というような条件をつけた観察はしないからである。スペースがまだ狭い段階でのフォームド・フェルトセンスの観察も難しい
 敢えて言うなら、マインドフルネスではスペース部分の体験過程そのものを観察し、体験過程そのものとしてそこに居ることを実践しているのではないだろうか。スペース部分が広ければ、からだの広い範囲でそれが起こり、狭ければ狭い範囲で起こる。狭いなりにやっていれば、だんだんスペースが広がるだろうか。フォーカシング(クリアリング・ア・スペースも含めて)抜きにそれはないと私は考える。仕事やクライアントと向き合いながらマインドフルネスでいることができるなら、フェルトセンスを観察しつつ、言語化しつつ、ということになるだろう。それによって私たちは”あるがまま”でいられるだろうし、スペースも広がっていくに違いない。
 フォームド・フェルトセンスに関しては、他者のマインドフルな観察眼(プレゼンス)を借りながら向き合っていかざるを得ないだろう。雲の中に居ながら雲は見えないのである。ただ、文章に表したり、絵を描いたり、夢日記をつけたりすることは、フォームド・フェルトセンスを自分で観察する良い手段ではある。
 このようにして広いスペースを確保していきつつ、スペースを耕して体験過程のままで居られるようになること、私たちのだれもが漠然と向かっていきたいと願っている方向というのはそんなふうに言えるのではないかと私は今のところ考えている。
(日本フォーカシング協会ニュースレター 2014年11月号に投稿したものです)