from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

考えることの是非 (一心塾だより 第43号)

 コロナ禍でお休みが続いていますが、哲学カフェを2年ほど島根大学の川瀬先生(現在は神戸女学院大学教授)と一緒に開催していました。

 「なぜ人はウソをつくのか」とか「<お金>ってなんだろう」とか、わかっているようで実はよくわかっていないテーマについて10数名の参加者で話し合います。自分の考えを発言したり、他者の話を聴いたりしているうちにテーマに関する認識が深まっていきます。何を言っても否定されることなく聴かれるという安心感はフォーカシング・サンガと似た心地です。

 哲学カフェ、あるいは単に「考えること」は、答があってそれを知識として学ぶという私たちが学校教育で慣らされてきたこととはだいぶん趣が違います。正解も評価もなく、ただ考えを深め合うのです。先生も生徒もなく、皆対等です。

 考えることは既存の習慣やルールに疑問を差し挟むことにもなるので、組織の上の方で支配的に画策している人たちにとっては迷惑なことかも知れません。その人たちの言葉を鵜呑みにしてくれたほうが組織は平穏でしょうから。

 考えることを「上」に任せてしまう人には、「上」に対する忖度が生じます。自ら考える人や「何か変だ」と感じる人は、忖度する人たちから差別されるかもしれません。ハラスメントもそんなふうに起こるのかも知れません。しかし末端の現場で生じる矛盾を考えていくのでなければ、組織はやがて立ち行かなくなります。「上」を意識せずに、素朴な問いを発し、皆で考えることはとても大事なことだと思います。そのためにはとにかく安全で、何を言ってもしっかり聴いてもらえる環境を整える必要があります。自由に考えることができるとは、真の自由の大前提です。

 ところで、仏教は考えることを戒めます。戒律によって決められたことを遵守し、 「無私」であることが尊ばれます。こうした傾向は他の宗教でも見られ、歴史的に国家と宗教が結びついていたのは、「庶民に考えさせない」という目的で一致していたからかもしれません。

 仏教では、考えることによって「あれはこういうもの」、「あの人はああいう人」という自分流の固定的な認識が生じることで自他の乖離が進み、それが苦しみの根本原因であると説きます。

 しかし「考えること」は、むしろ固定的な認識を解放することに役立っています。思考が浅く、また独りよがりな考えから固定的な認識が生じてしまうのではないでしょうか。きちんと考えることは、むしろ仏教の目的にも適っていると言えます。

 もう一つ押さえておくべきは、フォーカシングと「考えること」の関係です。考えるとき、あるいは考えて発言するとき、あるいは他者の考えを聞くとき、フォーカシングを実践する人は、その考えが体験過程に響くかどうか確認しています。体験過程に沿った思考、そこから出てくる言葉は周囲の人を納得させる力があります。なぜなら体験過程は個人の中に収まっているものではなく、場で共有され常に影響を受けたり与えたりしているものだからです。フォーカシング的に考え、発言するのであれば、思考が浅くなることも、独りよがりになることもないでしょう。

イベント案内 ↓

www.sinsined.com