from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

日常会話の中のギフト <一心塾だより 第47号>

 私をこの道に導いてくださった恩師が、ご自宅で笑いながら、こうおっしゃっていました。「ロジャーズのカウンセリングを学んだ後、妻の話を伝え返しながら聴いたら激怒された」。様子を想像して、私も笑いましたが、これはたいへん大きな課題だなあと感じたものです。

 カウンセリングやフォーカシングの技術が、家庭や学校、職場など日常の人間関係の中で活かせるのなら、それは画期的です。特にコロナ下、虐待や不登校、職場のハラスメントの件数が増える中、その思いは募るばかりです。私が10年ほど前から「甘え」についての考察を始めたのも、そのような私の問題意識があったからだと思います。

 フォーカシング・サンガにおいても、感想を伝えることを参加者に促しています。これは、日常会話の中に普通に盛り込める相手に対するギフトです。ですから心を込めて、ギフトのつもりで感想を述べます。仏教で言えば布施です。それは感謝の証であり、慈悲の行為とも言えます。しっかり相手の思いを聴きながら、少しずつ核心に至ること、その結果こちらの内に生じた思いを感想として伝えること、これらは相手の甘えを大いに満たしますし、お互いに癒やしが生じます。

 誰かが自分のことに関心を持ち、理解しようとすることで、初めて私たちは自分のことを言語化し始め、そしてその誰かの目線で自分自身を眺められるようになります。つまり自己の客観視が可能になります。

 私たちは家庭を含め、いろいろな場に所属しています。もし、ある場において誰も自分に関心を持ってくれないとしたら、その場における自分というものを客観視しにくいでしょう。自分本意な感情によってしか周囲の人を捉えられず、勝手に落ち込んだり、勝手に腹を立てたり不安になったりするのです。その様になっている人を、周囲の人は「わがまま」、「空気が読めない」、「暗い」などと批判的に思うかもしれません。この悪循環から抜け出すのが容易でないことは想像に難くありません。このように虐待や不登校、ハラスメントが起こっていくのではないでしょうか。

 

リスナー考Ⅱー 体験的理解について ー <一心塾だより 第46号>

 「体験的理解」という言葉は、2012年に日本仏教心理学会誌に「体験的理解による『甘え』の超越」という論文を発表したときに初めて使いました。この論文は、私のホームページの論文のページ(https://www.sinsined.com/paper)から読むことができます。

 この論文の中で体験的理解について、こんなふうに説明しました。よく調弦した2本のギターがあって、一方のギターが「ミ」を鳴らせば、他方のギターも「ミ」の音がなるように、つまり共鳴現象によって相手のことがわかること、と。フェルトセンスの発する特有の雰囲気にリスナーのからだが共鳴することで、相手のフェルトセンスをダイレクトに体験すること、それが体験的理解です。これは自動的に起こることであって、言葉に頼った他者理解とは全く違います。

 体験的理解ができているときは、例えば相手がフェルトセンスを言葉にできないでいるとき、「もしかしたらこんなふうに言えますか?」とリスナーの方から提案することができます。また、相手の言葉がフェルトセンスをぴったり表現しているかどうかも、リスナーの方で判断することができます。そして、前回のリスナー考で述べた「核心」についても、これがそうだなと感覚的にわかります。

 魔法のようでしょうか?よく調弦されたギターのように、からだが整っているならごく自然なことなのです。このように体験的理解されるとき、相手は甘えが満たされます。甘えとは「言わんでもわかって」ということなのですから。それは非常に気持の良いことであり、お互いにエネルギーの上がることでもあります。

 リスナーのからだが整っていないということは、感覚が鈍って共鳴できないということであり、逆に思い込みによって関係ないところが過剰反応してしまうということでもあります。これでは相手はイライラしてしまいます。フォーカサーやリスナーを繰り返していくことで、きっとからだは整っていくことでしょう。

 最後にちょっと宣伝です。最近Zoomでのフォーカシング指導をはじめましたので、よろしければご利用ください。フォーカシングパートナーとペアでお申し込みいただく方が良いですが、お一人で申し込まれれば、別なお一人様とマッチングさせていただきます。またZoomやメールによる私とのフォーカシングセッションも承っています。詳しくはお問い合わせください。

 

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「世間」と「甘え」 ( 一心塾だより 第45号)

 『同調圧力 ー日本社会はなぜ息苦しいのかー』(鴻上尚史佐藤直樹著)を読み終わって頭が忙しくなっているので、この場を借りて整理してみたくなりました。この本で徹底的に語られる「世間」というものに、「甘え」の問題が絡んでいると思えるからです。

 対談を行っている鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんは、著作や演劇で「世間」のからくりや弊害を繰り返し訴え、佐藤直樹さんは「日本世間学会」の代表としてこの問題を追求しています。お二人はコロナ自粛の現在の日本に「世間」の問題が噴出していると危機感を覚え、この本を緊急出版されたようです。本のタイトルの「同調圧力」は世間の弊害を語る上でのキーワードです。

 ゴールデンウイーク前に政府は緊急事態宣言とともに国民に自粛を求めました。すると罰則もないのに、日本人は非常に従順にこれに従いました。諸外国ではありえないことのようです。罰則はなくても「世間」が日本人を縛るのです。世間の同調圧力は法律を上回る日本人の行動原理といえます。日本は犯罪が非常に少ないけど、10代の自殺が非常に多いということも同調圧力が強く影響している、と二人は指摘しています。

 同調圧力とは、「空気」であって言葉ではありません。ここが問題です。言語化されてしまえば反発もできますが、空気に抗うのは容易ではありません。鈍感であればよいだけのことですが、空気に鈍感であったがゆえにいじめや仲間はずれにされてしまうこともあります。それが怖くて敏感でいると萎縮せざるを得なくなってしまいます。また敏感に空気や相手の意図を読み取って、先回りして行動するのが日本流のおもてなしであり、忖度です。

 言われなくても空気や意図を読み取る能力が日本人は抜きん出ているので、とても甘えが満たされやすいのですが、逆に、明確に要求することが控えられ、品のないことのように感じられます。明確に要求しない習慣が、甘えたい気持ちの言語化を鈍らせ、甘え下手な人がストレスを抱えていくのです。私が『甘えとストレス』( Book Trip)で書いたのはその辺のことです。

 佐藤さんは世間と一体化するのではなくて、個人として社会とつながることを説きます。しかしそれはなかなか難しいので、鴻上さんは、家族や職場など一つだけの世間にいると息苦しくなるから、いろんな世間にゆるく関わることを勧めています。

 空気を読み取る能力に長けた日本人は、世間と同化しやすいことは確かでしょう。その息苦しさはフェルトセンスとして感じられるはずです。そこをフォーカシングして、言語化に成功すれば、世間を居心地の良い空間にできますし、苦しんでいる人を助けることもできるでしょう。同調圧力を掛け続けている人に対して、ピシャリと効果的な言葉がけができるようにもなりたいものです。せっかく持って生まれた日本人的能力を長所として活かしたいものです。

 

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リスナー考 -核心に迫ること- (一心塾だより 第44号)

 フォーカシング・サンガではグループの中で皆が見守る中、リスナーとフォーカサーをやらなければならないのですが、特にリスナーに立候補するのは大変勇気がいることと思います。

 リスナーをする上で、フォーカシングの流れが頭の中に入っていることは非常に役立つと思います。色々なタイプのフォーカサーがいるのですが、流れは同じです。

  1. 気がかりなことの概要を聴く。何が気がかりなのか本人もよくわからないときはからだの感じを尋ね、そこから連想される概要を聴く。長くなってきたら「まとめの伝え返し」をする。
  2. フォーカサーが言いたかったことの核心を捉え、短い言葉で力強く伝え返す。
  3. からだの感じを尋ねる。一段落ついた感じがあるなら終了する。

 なんだか簡単です。実際、難しく考えず、リラックスして聴いていたほうがうまくいきます。フォーカサーが経験豊富な方なら、1から2へすんなり自分で進んでくださいます。そうでない場合はいろいろ苦心しますが、それがリスナーの醍醐味と言えるかもしれません。

 「核心は何か」というところに迫ることを忘れて、路頭に迷うフォーカシングをときどき見かけます。フォーカサーに共感しながらピッタリ寄り添っているのですが、ふたりとも、どこに行って良いのかわからなくなっているのです。概要を聴くときは少し距離感のある聴き方のほうが良いかもしれません。だから伝え返しは控えめが良いでしょう。でも「興味を持って聴いてます」という非言語メッセージは、頷きや表情で常に発します。

 何が核心かということは、当然ですが、フォーカサーが感覚的にわかっていることです。リスナーはフォーカサーとともにその感覚に少しずつ焦点を合わせていきます。まさに「フォーカシング」ですね。しかし、核心に触れかかると、「批評家」が出てきたり、ネガティブ思考に陥ったりするフォーカサーも多くおられます。核心へ至る道が霧やヤブで隠されてしまう感じです。核心に触れると変化が起きますから、その変化の予感をなんだか怖いもののように感じて、抵抗が生じるのも当然なのです。リスナーのほうで「これは批評家だ、これはネガティブ思考だ」と気づいていれば、道を見失わないで済みますが、怖い気持ちへの気遣いも必要です。ある程度道を切り開いたところで、一段落し、あとはクロッシングタイムに委ねるほうが安全、ということもあります。

 早いうちにフェルトセンスに言及して、それの処理を進めていくというスタイルを持ったフォーカサーやリスナーもいらっしゃいます。リスナーは、そのフェルトセンスが本当に問題の核心を表現しているものなのかどうか、常に注意深く感じている必要があります。そのフェルトセンスに注目していたら、お腹の下の方で別の感覚が出てきて、どうやらそっちのほうが核心らしい、というようなことはよくあります。

 リスナー上達のためには、フォーカシングセッションをオブザーバーとして観察しながら、リスナーの立場に立って、核心は何だ、どうたどり着くのだ、と興味深く聴いていると良いと思います。そしてクロッシングタイムのときに質問されるのも良いと思います。

 

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考えることの是非 (一心塾だより 第43号)

 コロナ禍でお休みが続いていますが、哲学カフェを2年ほど島根大学の川瀬先生(現在は神戸女学院大学教授)と一緒に開催していました。

 「なぜ人はウソをつくのか」とか「<お金>ってなんだろう」とか、わかっているようで実はよくわかっていないテーマについて10数名の参加者で話し合います。自分の考えを発言したり、他者の話を聴いたりしているうちにテーマに関する認識が深まっていきます。何を言っても否定されることなく聴かれるという安心感はフォーカシング・サンガと似た心地です。

 哲学カフェ、あるいは単に「考えること」は、答があってそれを知識として学ぶという私たちが学校教育で慣らされてきたこととはだいぶん趣が違います。正解も評価もなく、ただ考えを深め合うのです。先生も生徒もなく、皆対等です。

 考えることは既存の習慣やルールに疑問を差し挟むことにもなるので、組織の上の方で支配的に画策している人たちにとっては迷惑なことかも知れません。その人たちの言葉を鵜呑みにしてくれたほうが組織は平穏でしょうから。

 考えることを「上」に任せてしまう人には、「上」に対する忖度が生じます。自ら考える人や「何か変だ」と感じる人は、忖度する人たちから差別されるかもしれません。ハラスメントもそんなふうに起こるのかも知れません。しかし末端の現場で生じる矛盾を考えていくのでなければ、組織はやがて立ち行かなくなります。「上」を意識せずに、素朴な問いを発し、皆で考えることはとても大事なことだと思います。そのためにはとにかく安全で、何を言ってもしっかり聴いてもらえる環境を整える必要があります。自由に考えることができるとは、真の自由の大前提です。

 ところで、仏教は考えることを戒めます。戒律によって決められたことを遵守し、 「無私」であることが尊ばれます。こうした傾向は他の宗教でも見られ、歴史的に国家と宗教が結びついていたのは、「庶民に考えさせない」という目的で一致していたからかもしれません。

 仏教では、考えることによって「あれはこういうもの」、「あの人はああいう人」という自分流の固定的な認識が生じることで自他の乖離が進み、それが苦しみの根本原因であると説きます。

 しかし「考えること」は、むしろ固定的な認識を解放することに役立っています。思考が浅く、また独りよがりな考えから固定的な認識が生じてしまうのではないでしょうか。きちんと考えることは、むしろ仏教の目的にも適っていると言えます。

 もう一つ押さえておくべきは、フォーカシングと「考えること」の関係です。考えるとき、あるいは考えて発言するとき、あるいは他者の考えを聞くとき、フォーカシングを実践する人は、その考えが体験過程に響くかどうか確認しています。体験過程に沿った思考、そこから出てくる言葉は周囲の人を納得させる力があります。なぜなら体験過程は個人の中に収まっているものではなく、場で共有され常に影響を受けたり与えたりしているものだからです。フォーカシング的に考え、発言するのであれば、思考が浅くなることも、独りよがりになることもないでしょう。

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父性を考える <一心塾だより 第42号>

『こころの天気を感じてごらん』の第2部「甘え論」を書いているときに、父性について考えていました。甘えが母性に関係が深いことはわかっていましたから、では父性とはなんだろうというわけです。

 甘えは一体化を求める心です。言葉で言わなくてもなんでもわかって何でも叶えてもらいたいと望みます。まるで子宮の中にいるときのようにです。そして母性はその願いに応えようとします。

 一体化に反して母子を分離し、子を自立に向かわせる働きを父性と考えるのは自然なことだと思います。しかしそれは父親の働きというよりは、遺伝子に組み込まれた成長のプログラムであり、また環境からの働きかけという要因も大きいと思います。

 母性と父性はバランスがとても大事です。一体化状態で十分な心の栄養を取り入れなければ、自立を促す環境に対応することができません。逆に環境の働きかけが弱ければ、一体化状態というぬるま湯の中で成長の意欲を失うかも知れません。このバランスを維持するのもまた父性の働きではないでしょうか。ときには一体化状態が維持できるように必死に守ってあげますし、様子を見て自立を促します。しかし母性は母親の役割、父性は父親の役割というふうに考えないほうが良いでしょう。両者が両方の働きを担っているのが実情だと思います。そして社会も両方の働きを担っています。そのバランスが崩れないよう、私たちは社会を見守る必要があると思います。

 大人になってからは、私たちは自分自身に対して母性的関わり、父性的関わりをある程度施しています。でもそのバランスが崩れると、なんとなく生きづらいでしょう。

 細かい話になりますが、フォーカシングにおいてフェルトセンスを感じることは一体化すること、つまり母性的です。そこから新しい意味を見出していくことは父性的です。そしてこのフォーカシングのプロセス全体を支えることは父性的と言えます。そんなふうに考えてみました。いかがでしょうか。

 

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フェルトセンスの出現を待つ <一心塾だより 第41号>

 コロナ巣ごもりも終わりが見えて来ましたね。油断は禁物ですが、ちょっと出掛けて気分転換したいところです。

 ところで、出かけようと思ったとき、どの服を着ていこうかと迷うことがあると思います。ここできちんとフォーカシングするなら、きっと適度に自己表現と協調性のあるファッションになるのだろうと思います。でも大抵はあれこれ迷う時間もなく、「いつものやつ」を着ていくことになります。

 フォーカシングしてみたら良いんじゃないかという局面は、日常の中に数限りなくあるのでしょう。しかしそのほとんどは「いつものやつ」で片付けられてしまいます。ちょっと違ったことをやったとしても、それは単に感情や気分に左右されているだけなのかもしれません。

 もし少しでも「いつものやつ」に違和感があるのなら、一度きちんとセルフ・フォーカシングしてみてはいかがでしょうか。ふと違和感を感じた瞬間に、「このことについて、あとでフォーカシングしよう」とメモしておくことがおすすめです。なかなかその場では時間がなくて、できないことが多いですから。

 一人でフォーカシングするときには、30秒くらい掛けて、そのこと(例えば服のこと)についてのフェルトセンスの出現を待ちます。フェルトセンスは、「出現する前から、すでにそこにあるものでも、その下に隠れているものでもないことをもう一度強調したい。(中略)それは以前にそこにあったものからやってくるものではあるが、人は、それが今やってくるのを感じるし、それ自体としてすでにあったものではないと感じる。フェルトセンスの出現はからだの変化なのである」(フォーカシング指向心理療法(下)p300)とジェンドリンは述べています。

 フェルトセンスの出現を30秒待つ、という手続きの習慣づけは今後強調していきたいと思っています。それこそがフォーカシングの要なのですから。

 そしてそれは、一歩進んだマインドフルネスであると思います。頭の中でぐるぐる考えることを一時的にストップさせるだけでなく、思考を落ち着く方向へ導いてくれる本物の解決をもたらします。