from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

フェルトセンスの出現を待つ <一心塾だより 第41号>

 コロナ巣ごもりも終わりが見えて来ましたね。油断は禁物ですが、ちょっと出掛けて気分転換したいところです。

 ところで、出かけようと思ったとき、どの服を着ていこうかと迷うことがあると思います。ここできちんとフォーカシングするなら、きっと適度に自己表現と協調性のあるファッションになるのだろうと思います。でも大抵はあれこれ迷う時間もなく、「いつものやつ」を着ていくことになります。

 フォーカシングしてみたら良いんじゃないかという局面は、日常の中に数限りなくあるのでしょう。しかしそのほとんどは「いつものやつ」で片付けられてしまいます。ちょっと違ったことをやったとしても、それは単に感情や気分に左右されているだけなのかもしれません。

 もし少しでも「いつものやつ」に違和感があるのなら、一度きちんとセルフ・フォーカシングしてみてはいかがでしょうか。ふと違和感を感じた瞬間に、「このことについて、あとでフォーカシングしよう」とメモしておくことがおすすめです。なかなかその場では時間がなくて、できないことが多いですから。

 一人でフォーカシングするときには、30秒くらい掛けて、そのこと(例えば服のこと)についてのフェルトセンスの出現を待ちます。フェルトセンスは、「出現する前から、すでにそこにあるものでも、その下に隠れているものでもないことをもう一度強調したい。(中略)それは以前にそこにあったものからやってくるものではあるが、人は、それが今やってくるのを感じるし、それ自体としてすでにあったものではないと感じる。フェルトセンスの出現はからだの変化なのである」(フォーカシング指向心理療法(下)p300)とジェンドリンは述べています。

 フェルトセンスの出現を30秒待つ、という手続きの習慣づけは今後強調していきたいと思っています。それこそがフォーカシングの要なのですから。

 そしてそれは、一歩進んだマインドフルネスであると思います。頭の中でぐるぐる考えることを一時的にストップさせるだけでなく、思考を落ち着く方向へ導いてくれる本物の解決をもたらします。

脳の刺激減少中 <一心塾だより 第40号>

 4月半ばから松江市内の公民館が休館になっているので、私のマインドフルネス・ヨーガ教室も休講中です。32年やって来て、こんなに長く教室をやらないのは初めてのことです。しかし教室がないと、なかなか本格的にはヨーガができないものですね。家でパソコンに向かいすぎて(仕事とは限りません ^^;)からだが固まったときに、ちょこっとストレッチするくらいです。改めて、教室と生徒さんの存在は偉大だと気づかされます。

 コロナ禍でスクールカウンセラーとしての活動も最小限となっており、脳の大事な部分が働いていない感じです。ぐっと来る感覚、はっと気づく感覚、成長を喜ぶ感覚などだと思います。それらが、自分の幸せを構成しているようです。フォーカシング・サンガでももちろんそれらの感覚をしっかり味わっていますから、参加してくださっている方には本当に感謝です。

 家ではネットで昔見ていたアニメの再視聴が続いています。それこそ主人公の成長にぐっと、はっとしております。サンガの本物感に比べれば、脳の刺激は僅かですが、この小欄を書きながら、そういうことだったのかと納得しています。今日もこのあとアニメにハマります。

ZOOMの時代到来 <一心塾だより 第39号>

 大事な人を死に至らしめ、様々な生産活動をストップさせている新型コロナウイルスですが、この環境の変化は我々に新たな展開をもたらしています。

 ジェンドリンは哲学的主著『プロセスモデル』において、カブトムシの足が一本折れたなら、新しい歩き方をすぐに身につけるという例を上げて、そのことを説明しています。今までのパターンが通用しなくなれば、我々のフェルトセンスは新しい環境に適応すべく我々を導いてくれているのです。ちなみに、「トイレットペーパーがなくなるらしい。それ!」と、スーパーに我々を走らせるのはフェルトセンスではありません。

 東日本大震災のときには、世界中が再生可能エネルギーの開発に意識が向きました。せっかくの新たな展開だったのに、日本は電力会社の意向を尊重してか、その波に乗れませんでした。それでいて原発も再稼働できず、結果としてCO2を大量に発生する火力発電に頼り、世界の顰蹙を買っています。やっとこの4月から送電線の管理を電力会社から切り離すことになったので、少しは再生可能エネルギーが日の目を見るかもしれません。

 すみません、脱線しました。
 今の新たな環境変化は、ZOOMというテレビ会議システムの使用が飛躍的に広がっているということです。今まで何となく敬遠していたけど、利用せざるを得なくなって、利用してみたらなんか良かった、という生活の変化はよくあるのですが、ZOOMの広がりは本質的な変化を感じさせます。

 ミネルバ大学という、今世界で一番人気のある大学は、授業をすべてテレビ会議システムを使って行っています。学生同士がパソコン画面を通して活発な議論をしているのです。必然的にキャンパスは必要なく、だから授業料がとても安いのです。他の大学も、きっとこの方法を取り入れていくことでしょう。

 集まって話をする。それは我々の素晴らしい楽しみです。心の健康にも良いことです。ZOOMはその機会を広げる「どこでもドア」みたいなものですね。

批評家 <一心塾だより 第37号>

 フォーカシングはうまくできない、自分には向いていないと思っている人は、「批評家」に悩まされている場合が多いと思います。

 批評家とは、常に自分の頭の中に存在して、自分を批判する声です。「どうせお前にはできっこない」、「なんてダメな人間なんだ」、「何をやってもダメなんだから」、「あんなことする(言う)んじゃなかった、どうせいいようには思われないんだから」・・・。

 おそらく幼い頃に近しい人から言われていた言葉や態度が脳に焼き付いて、それ以来今日まで、自らの行動規範になっているのでしょう。ちなみにフロイトはこれを「超自我」と呼びました。自らの内側に批評家が住んでいると、生きづらいものです。しかし幼い頃からずっと一緒なので、距離が近すぎて、批評家がいない世界というものを想像することは難しいと思います。フォーカシングの最中でも、頭のどこかで「こんな事やっても無駄だ」とか言ってきて、だんだん思考優位になってしまうこともあるでしょう。

 批評家に対しては毅然とした態度を取る必要があります。「少し黙っていなさい」、「あなたの言うことは私の役には立っていません」。そしてはっきり距離を取るようにしてください。ただ、今までもの事に慎重でいられたのは批評家のお陰もあるかもしれませんから、こんなふうに言っても良いでしょう。「今までありがとう。あなたの居場所は、あの隅っこ辺りに確保しておきます。必要があるときには声かけるからね。それ以外のときはおとなしくしといてね」

 批評家は大きな影響力を発揮して、私たちの主体性を脅かします。私たちの本当の主体性はフェルトセンス、つまりからだの実感の方にあることを、フォーカシングに親しむに連れ、信じるられるようになります。そうなれば、批評家を静かにさせることができます。

 マインドフルネスの態度も重要です。日常においてふと批評家が思考に侵入してきたとき、素早くそれに気づき、「やあ、批評家さんいらっしゃい。来てくれてありがとう。じゃあさようなら」と丁寧に帰してあげます。これをしばらく続けることでも、徐々に批評家の来訪は遠のいていくことでしょう。

被害感情 <一心塾だより 第38号>

前回書きました「批評家」については、反響がいつも以上にあり、改めて批評家に悩まされている人は多いものだなと思いました。また、反響の中に「被害感情について知りたい」というコメントがありましたので、今日はそれについて考えてみたいと思います。

 被害感情を持つと、相手への恨みや怒りで心が溢れそうになり、とても辛いものです。決して持ちたいわけではないですが、実際に被害を受けると持たざるを得ません。直接的に、または関係者や相応の機関を通して、相手に謝罪や配慮を求めることができるなら、ぜひそうするのが良いと思います。

 アサーション・トレーニングの考え方から、①事実を明らかにし、②辛い思いをしていることを伝え、③相手に望む行動や配慮を提案し、④拒否や反発された場合の対応を考えておきます。冷静に、怒りをぶつけるようなことをせずにこれを行うことが肝心です。一度うまくいくと、とても自信が付きます。そのオーラが作用してか、なぜかそれ以降被害を受けなくなります。

 しかし過去に受けた被害や、到底相手に対しアサーション的な対応など無理な場合、相手が人ではなく事故や災害の場合、何に傷つけられているのかよくわからない場合などは、被害感情は「被害者意識」に変わり、辛く苦しいフェルトセンスをずっと抱えることになります。人の言葉尻に過剰に反応して激高したり、人に優しくできなくなったりします。「忘れなさい」とか「明るく振る舞ったほうがいいよ」とか「あなたにも責任の一端がある」などと言われることも多いことでしょうが、その言葉が辛さを増幅します。

 この長く続くフェルトセンスは、ジェンドリンの言葉を借りれば「ストッペイジ」です。これは、見かけ上プロセスが停止しているということです。でも、フェルトセンスに触れるたびに、ほんの少しずつプロセスは進むのです。これをジェンドリンは「リーフィング」といいます。次々に芽吹く木の葉の、その一枚一枚の形が皆少しつづ違っているという意味です。ですから、もし批判せず聴いてくれる人がいるなら、臆せず被害について語ったら良いのです。語るたびに少しずつ変化していきます。次第に、「被害者」というセルフイメージを手放すこともできるでしょう。

 私たちのフェルトセンスは、常に前に向かって展開しようとしています。それは生命そのものです。それを確実に前に進めるのが傾聴であり、フォーカシングです。それでも長くかかるものは長くかかります。そう覚悟を決めて、一生かけて一歩進みましょう。それでも生物の進化のプロセスが何万年もかかることを思えば、爆速です。 

 

四つの聖なる真理 (一心塾だより第36号)

明けましておめでとうございます。今年も一心塾だよりをよろしくお願い申し上げます。

 
四つの聖なる真理
 
 年末からディビッド・ブレイジャー氏の『フィーリング・ブッダ(藤田一照訳)を読んでいます。仏陀が最初に説法した四聖諦(ししょうたい)について、従来の経典解釈に囚われることなく、臨床心理学的視点から解き明かされていて、非常に説得力があります。そしてその内容は、フォーカシングと驚くほどの共通点があります。
 四聖諦は文字通り4つの聖なる真理です。その第一は苦聖諦。よく言われる生老病死や、離別の苦しみ、嫌なものと出会う苦しみなどにとどまらず、苦とは、私たちにやってくる刺激の全てです。前回の一心塾だよりの五蘊の説明では「受」に当たります。仏陀はこれを敢えて「聖なる真理」と見ました。苦(受)があるから悟りがあるのです。フォーカシングに置き換えてみれば、苦とはフェルトセンスです。フェルトセンスがあるから私たちは環境に対応していくことができます。苦こそが聖諦の第一であると、繰り返し自分に染み込ませていくことで、仏陀の思いに私たちは近づくことができるはずです。
 苦に対して私たちは必ず反応します。それが第二の聖なる真理「苦集聖諦」です。嫌なことがあって、苦を体験すると、心の中で自分を責めたり、相手や社会を責めるという反応を私たちはしていますし、時には言葉や行動で示すこともあります。五蘊の「想」に当たります。そして「想」を野放しにすると、「行」→「識」と発展して、いよいよ苦が苦悩として感じられるようになってくるのです。
 苦に対するこうした反応も、仏陀は「聖なる真理」と見ます。それはとても人間的なことだからではないでしょうか。愚かで、過ちばかり犯すのが私たち人間ですが、そいういうところもひっくるめて聖なる存在であると見る。それが仏陀の信念なのだと思います。禅で「煩悩即菩提」(煩悩=悟り)といいますが、第二聖諦をよく表した言葉だと思います。そして本当の慈悲と、本当のポジティブ思考がここにあります。
 第三は「苦滅聖諦」です。不思議なことに、愚かで過ちばかりで情けない私たちを「聖なる存在」と見るときに、変化が起こってきます。大きく捉えるときに、中で起こっている反応は制御されていくものなのです。
 「滅」という言い方は、サンスクリット語の「ニローダ」から来ていますが、従来は「止滅」と訳され、これが仏教ともヨーガにも大きな誤解をもたらす原因となっています。つまり、苦も、苦に対する反応も、すっかり無くなってしまうのが仏教やヨーガの目指すところ、と解釈されてきたのです。それはあり得ないことです。あり得ないことを目指して、多くの修行者が無駄に苦しんできたのです。ブレイジャー氏は「ニローダ」を、壁で囲んで中の反応を制御すること、と解釈することで、仏陀の真意を掘り起こすことに成功しました。
 そして、カウンセリングやフォーカシングはまさに苦滅聖諦です。リスナーが居ることが、反応を大きく捉え囲むことに相当します。一人で行うなら、座禅のような不動の姿勢を取ることが極めて重要です。この姿勢が、囲みに相当するからです。ヨーガによって、インナーマッスルを鍛え、正しい姿勢が取れるように練習しましょう。
 第四は「苦滅道聖諦」です。いわゆる八正道です。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。これは読んで字の如し。正命とは無駄に生き物を殺さないこと、正念とはマインドフルネスのこと、正定とは正しい姿勢で座ることです。八正道は知る人も多いですが、第一、第二、第三聖諦を知らなければ、形だけのものになってしまいます。

 

雑念を活かす瞑想 一心塾だより 第35号

 雑念は、悪者扱いされることが多いですが、自然に出て来るものに善悪の価値付けなどするから、「集中できない!」などと、イライラの原因になってしまいます。「よく出てきてくれました」と、大事に受け止めてあげるのが「雑念を活かす瞑想」です。雑念は心の絶え間ない表現活動です。生きている証です。

 例えば、少し難しい本を読んでいるとします。気がつくと、目は字を追っているのに、頭の中では別のことを考えてしまい、ちっとも内容が頭に入らないということがよくあります。これも雑念です。集中を妨げます。気を取り直し、再び元のところから読み始めますが、やはりいつの間にか別世界へ。それで読むことをあきらめた本が一体何冊あるでしょうか。

 「この本を読まねば」と思うことが、雑念を敵にします。逆に、「雑念が出てくるための読書」と思えば、もっと読書を楽しめるかもしれません。「雑念が出てきたら、『出てきてくれてありがとう』と思って瞑想してください」と教示して瞑想してもらうと、「そう言われたら、なぜか雑念が出てきませんでした」という感想をもらうことがよくあります。案外、読書のときも 「雑念が出てくるための読書」と思えば、逆に意外と集中できるかもしれません。

 しかし、雑念を野放しにしてもいけません。野放しにしていると、雑念が概念として固まっていき、やがて概念が寄せ集まって自己意識が作り上げられていきます。自己意識が出来上がると、他者の持つ自己意識と相容れなくなり、無理解や喧嘩が起こります。これが仏教で五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言われる、苦しみの本質です。

 私たちは、幼いうちから気づかないうちに自己意識を作り上げています。それは社会の一員として、何者かとして生きるための手段でもあるのですが、苦しみの元でもあると知る必要があります。

 雑念を活かす瞑想では、雑念をありがたく受け止め、そこから考えをあまり展開させないようにして、概念を作らないようにします。そのために、頃合いを見て姿勢や呼吸へのマインドフルネスに戻るようにします。すると、次に出てくる雑念は、よりピッタリ言葉に近いものになる可能性があります。マインドフルネスによってからだとアクセスした結果、自然なフォーカシングが起こるのです。
 雑念を活かす瞑想を続けていると、自己意識が柔軟になっていくと思います。それは苦しみが減ることであり、また自己意識が緩んだぶん、他者のフェルトセンスを感じ取りやすくなることでしょう。

 雑念は絶え間ない表現活動であり、創造の源です。世俗を柔軟に、力強く、創造的に生きていくために、ぜひありがたく活用してください。。