from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

フェルトセンスは「空」・・・その4(formed sense)

 フェルトセンスは二つの意味で捉えられている。これがフェルトセンス理解の混乱を招いている。

 フォーカシングに長年親しんでいる人は「状況に対するからだの反応」をフェルトセンスと捉えている傾向があり、割と経験の浅い人は「からだに感じられる違和感」をフェルトセンスであると捉える傾向があるようだ。
 
 これはフォーカシングを学ぶ際に、後者から入った方がフェルトセンスを理解しやすいという理由があるからだろう。ここから「痛みもフェルトセンス」という考えや「フェルトセンスは一つの人格を持ったまとまりとなり得る」という考えが生じる。臨床上はこうしたフェルトセンスの捉え方は便利であり、否定されるべきではないが、哲学的には前者の「状況に対するからだの反応」の方がフェルトセンス理解としては順当であろう。だからジェンドリンはTAE (thinking at edge)というフェルトセンスに基づいた新しい理論の導き方を提唱したものと思われる。臨床指向か、哲学指向かでフェルトセンス理解は異なってくると言える。

 この混乱を放っておくべきではない。私は臨床指向のフェルトセンスには別な名称を与えることを提案したい。例えば「formed sense(形を与えられた感じ)」はどうだろう。フェルトセンスが大気ならば、フォームドセンスは雲である。

 フォームドセンスはフェルトセンスが何らかの凝集作用を受けることで生じる。例えば偏った認知や行動のパターン化があるとき、フェルトセンスは自由な流れを妨げられ、凝集せざるを得ない。そうして生じたフォームドセンスをフォーカシングするとき、新しい認知や新しい行動が獲得されて再びフェルトセンスは自由になるのである。長くフォーカシングが為されないでいると、フォームドセンスは堅く大きくなり容易に向き合いがたいものになる。これが症状とか病気と呼ばれるものである。

 フォームドセンスは縁起によって生じると言い換えても良い。般若心経的文脈ではフォームドセンスは「色(しき)」となるだろう。そしてフェルトセンスは「空」である。

 フォーカシング、あるいはマインドフルネスが介在することで色即是空が成り立つ。しかし晴れたと思ったらまた雲が生じる。この世に生きているとはそういうことである。だから空即是色でもある。それもまた良しとするところが大乗仏教の醍醐味であろう。ただし「それも良し」と素直に思えるには色即是空が体感できていることが前提になる。<シリーズおわり>