フォーカシングにおけるマインドフルネス
今なされている心身の活動に100%集中し、没入することを「マインドフルネス」(以下、MF)といいます。 といっても我を忘れているわけではありません。ちゃんとその活動を行っていることに自分で気づいています。
例えば食べているときに、食べることのみに完全に集中しています。それが「食べることに対するMF」です。テレビやスマホを見ながらとか、おしゃべりしながらではMFになりません。同じように、呼吸にのみ集中すれば、「呼吸に対するMF」です。これらは「身体に対するMF」です。
「感覚に対するMF」もあります。例えば、聞こえてくる物音に耳を澄ましているときは「音に対するMF」です。食べているときでも、食べ物を口に運ぶ動作や噛むことへの集中は「身体に対するMF」ですが、味に集中していれば「感覚に対するMF」です。
そして何か活動しているときには心も活動しています。ですから「心のMF」というのもあるわけです。食事を味わいながら、その味から引き起こされる感情に集中すると、それは心のMFです。何もせずにただ座っているときでも心の活動に集中することはできます。これを「MF瞑想」と呼ぶことが多いようです。
MFでは100%集中し、没入しているけど、我を忘れているわけではありません。この辺りが少しわかりにくい思います。私なりの解説になりますが、“我を忘れていない”とは、集中し没入している対象を言語的に、あるいはイメージ的に意識できているということです。美味しいものを味わっているときは、「しっかりした食感、あっさりしているけど奥深さがある。奈良のお寺を彷彿とさせるような・・」などと頭が回転しています。これが、味わうということではないでしょうか。一方で活動に没入し、一方で観察し、意識化しているのです。観察だけで言語化やイメージ化しないでいると、ぼんやりしてしまって、そのうちに他のことに気が移ってしまいます。しっかり「今」を味わうためには言語化やイメージ化が必要なのです。
なぜMFが重要かというと、今という瞬間にのみ私たちは生きているからです。この瞬間を100%味わうのでなければ、生は色あせ、悩みは尽きません。
さて、フォーカシングとMFはどのように関連しているのでしょうか。
その前にフォーカシングをきちんと理解しておく必要があります。それにはまず体験過程を理解しなければなりません。
体験過程とは一言でいえば「感じ」です。私たちが食べているときも、歩いているときも、なにかに不安になっているときも、私たちは何らかの「感じ」を味わっています。感じそのものは現在感じられているのですが、過去の体験の影響も受けていますし、未来への希望や心配も反映しています。もしあなたが「感じ」を失ってしまったなら、それは生きていても生きている実感がないという、なんとも絶望的な状況に違いありません。
その体験過程を(もし失っていないなら)、私たちはすぐに意識化することができます。「あー、腹へったなぁ」とか「ちょっと疲れた」とか、そんな他愛もないことです。それらは食べるとか休むという行動を導きますから、体験過程は私たちの未来の行動を「含意」しています。そして食べたり休んだりすれば、体験過程は変化して、「満腹」や「元気」という感じになるわけです。
ところが私たちの生活は単純なことばかりではありませんから、体験過程も複雑な意味を含意することになり、どうしていいかわからなくなることがしばしばあるのです。
そいういうときにフォーカシングはとても力強い方法です。まずその感じにまつわることをいろいろ言葉にしていきます。言葉にするにはしっかりと寄り添って聴いてくれるリスナーの存在が必要です。ある程度語ったところで、リスナーが「ここまで語って今どんな感じですか」と問うと、フォーカサーのからだにフェルトセンスが立ち上がってきています。
フェルトセンスも「感じ」ではありますが、フェルトセンスの方はもう少し人格や意図を感じさせます。ですからフェルトセンスに対して「何を伝えたいのか?」と問うことで、私たちはフェルトセンスの願いを知ることができます。後はどのようにフェルトセンスの願いをかなえるかを考えてあげればよいわけです。
フォーカシングに慣れてくると、セルフフォーカシングができるようになります。つまり自分の中に「内なるリスナー」が育つのです。この内なるリスナーは、MFにおける観察者であり、言語化やイメージ化を担当する存在にもなります。ですから普段から日常の活動においてMFを行うようにしていれば、セルフフォーカシングを行う準備が整うことになります。
セルフフォーカシングは「体験過程に対するMF」と捉えたら良いでしょう。つまりある事柄について思いつくままに言葉を心の中で発していき、それを内なるリスナーが聴いてやります。そのうちに「感じ」が出てきますので、その感じを言語化したりイメージ化したりしているうちにフェルトセンスが立ち上がってきたら、その言わんとするところを聞き取ってやります。 感じを言語化しているだけで感じが変化していくこともあります。それはそれで立派なフォーカシングといえます。
最後にMFを世界に広めたティック・ナット・ハン師の『ブッダの<気づき>の瞑想』から重要部分を引用しておきましょう。<気づき>とはMFのことです。また引用中の「経典」とは、仏陀がMFについて直接説いた唯一の経典と言われる四念処経(しねんじょきょう、「4つのMF」の意)のことです。そしてこの本は四念処経の解説本です。
***
<気づき>は観察する心ですが、見る対象の外側にあるわけではありません。気づきは直に対象に入り込み、それと一つになります。観察する心の本質は<気づき>であり、それは対象の中でその力を失うことなく光を注ぎ変化をもたらします。太陽の光が浸透し、木々や植物を変えていくように。物事をよく見て理解したければ、対象に入り込み、それと一つにならなくてはなりません。外側にいて眺めているだけでは、真に見て理解することは不可能です。観察とは、入り込んで変化させる働きです。だからこそ経典には、「身体において身体を観察する。感覚において感覚を観察する。心において心を観察する。心の対象において心の対象を観察する」とあるのです。その説明は実に明快です。深く観察をする心は、単なる観察者ではなく参加者です。観察者が参加者であるとき、初めて変化が起こります。
***
この部分を読むと、MFとフォーカシングが一つのことであるように思えてくるのです。