「得体が知れない」ことのパワー
ダライ・ラマ法王の来日講演をネット中継で見ていましたが、法王は脳科学や物理学(特に量子力学)と意識の関係に非常に興味を持っておいでのようでした。科学者との対話はずっと続けていらっしゃるようです。
昔、宗教や占いが力を持っていたのは、「得体の知れないものを取り扱う力を持っている」と庶民が信じていたからではなかったでしょうか。
例えば星のめぐりや気象は神の領域のことだったのが、今ではすっかり科学の領域で扱えるようになり、「得体が知れない」ものではなくなりました。もちろん台風や地震は恐ろしいですが、「神の怒り」とは思わなくなりました。
しかし、死はまだ宗教が力を持っています。死後のことは科学で解明されていないからです。不登校や引きこもり、精神病も宗教の領域で捉えられていることが結構あります。心理学や精神医学、脳科学が発達して来ましたが、まだすべての人を納得させるまでには至っていないようです。
宗教の役割は、その大部分を科学が肩代わりしていくことになるでしょう。そうなれば、宗教間の対立がなくなるという大きな利点があります。
宗教的な「教え」については教育が肩代わりすべきですが、これもまだまだ進歩が足りません。「なんだかあの人はすごそうだ」、「あの人についていけば間違いなさそうだ」という感覚から、カリスマが登場します。でも教育にカリスマは必要ありません。自分自身をしっかりした根拠で信じられるようになる導きが教育なのですから。
無意識の領域のことは得体の知れないパワーを持ちます。なぜかわからないけど無性に「人を殺したい」とか思われたらたまったものではありません。無意識を意識化することが心理学の役割です。意識化できれば欲求の得体が知れてきて、コントロールが可能になります。
ダライ・ラマ法話は、高僧が死んだ後も体が腐らずに、しかも死んで3日後に手が動いたという話をしていらっしゃいました。微細な意識というものがあって、それは脳の活動とは関係のないものであるとおっしゃるのです。
ヨーガでもそのようなことを言います。微細な意識と量子力学が関連があるのではないかと法王は期待していらっしゃいます。そのへんが明らかになれば、死も科学として扱えるようになります。世の中からどんどん得体が知れないものを駆逐していき、真の科学によって平和が訪れることを法王は願っていらっしゃるのだと思います。
人の話を聴けるということ
人の話を聴けない人がいます。この人は相手の視点を理解できず、自分の視点でしか相手のことを理解しようとしないので、多くの会話はすれ違いとなります。
思い込みが強く、「相手はこう考えているに違いない」と断言的に受け取り、またそのように主張します。自分の心が落ち着かないときは、周りの世界が悪意に満ちているように感じてしまうことがよくあります。
「どうせみんな私のことを嫌いなんだ。私なんかこの世からいなくなればいいと思っているんだ」
と考えて、悲しくなります。
「そんなことないよ」となだめても、なかなか通じません。それでも優しくされたり褒められたりすると、だんだん調子が良くなってきます。
人の話を聴けないのは、自分の考え方、ものの見方にこだわることで「自分」を保とうとするからです。その人にとって「自分」とは、自分の考え方であり、ものの見方であり、自分流の価値観です。人の価値観などを受け入れるのは「自分」をなくしてしまうような怖さを覚えます。
そんな小さな「自分」にこだわらずに済むようになるためには、やはり他者の話に耳を傾け、他者の考えや価値観を理解する練習を続けることではないでしょうか。
聴くことは素晴らしい修行です。
「自我」の3つの意味
「あの人には自我の強いところがある」という言い方には、少し否定的なニュアンスがあります。「我が強い」とも言います。「自分にこだわりがあって、他者を受け入れることができにくい」という意味に使われていると思います。そこから「自分にこだわりがなく心が広い」人を「無我」と捉えるのではないでしょうか。
本来の仏教的な意味での「無我」は、「それだけで単独に存在するものはない」という哲学的真理を表しています。どんなものも関係の中にのみ存在しているといことです。
「我が強い」人は、自分の意見や考えに自信があって、他を寄せ付けないところがあるのですが、「自分が絶対」と思うことは、やはり本来的な意味での「無我」から外れていますね。
ところで心理学では「自我」はどんな意味を持っているのでしょうか。フロイトの創始した精神分析では自我は、「こうであるべき」という社会的な要請と「こうしたいなあ」という内なる欲求の間に立って右往左往している「機能」であるという位置づけです。ですから「自我機能」という言い方をしたほうがいいかもしれません。
しかしこの自我機能も、鍛えることで社会的要請と内なる欲求をうまくマネジメントできるようになります。そうなるとストレスを感じることなく、社会の中でのびのび行きていけます。そんなパワフルな自我機能を持つためにも、人の考えを受け入れたり、社会のために働いたりして、「無我」に近づいたほうが良いのではないでしょうか。
生まれ変わること
浄土宗や浄土真宗では、死後は、この上なく清らかな極楽の国、「浄土」に生まれる事になっていまる。これを「往生」といいます。キリスト教では死後は天国に生まれるといいます。同じ発想といってよいでしょう。生前の行いが悪ければ地獄に生まれるという脅し文句で、善業に人々を向かわせようとするのも仏教、キリスト教とも同じ発想かと思います。ただ浄土系では、地獄ということはあまり言いませんが。
輪廻については、仏教以前からインドに定着していた考え方で、お釈迦様は、完全な悟りを開けばもはや生まれ変わることはないと説きました。つまり、生まれ変わるのはまだ悟りに至っていないからだということです。そして生まれること自体が「苦」であるとしました。私たちは自分の身に降り注ぐ「苦」にきちんと自分で向き合うことで、少しずつ悟りに向かいます。決して自分の「苦」を他者のせいにしないことが大事です。といって自分を責めるのとも違います。「苦」を「苦行」と受け止め、さらに「修行」へと突き進み、最終的に「遊行」と捉えられるようになれば、そこは悟りの世界です。
ところで、死後は生まれ変わる説と、浄土(天国)・地獄説とありますが、どちらが正しいのでしょうか。もちろん無に帰すという考え方もあります。
大事なのは、どう考えるのが一番自分的にしっくりするかということではないでしょうか。
正しい答えがあるわけではないということは、おそらく誰もがわかっていることと思います。であれば、自分が楽になれる考え方が一番正しいと思えばよいと、私は気楽に考えます。しっくり来ない教えを我慢して信じることはありません。
私は生まれ変わるという考えがしっくりします。未来へも過去へも生まれ変われると夢想します。縄文時代に生まれ変わってみたいものだと思います。
ただ、生きている間に少しずつ悟りのレベルを上げて、次の生を迎えたいと願っています。それがお釈迦様の心に叶うことだと思います。そうやって何生か掛けて、もう生まれ変わらなくてもよいと思えるようになれば、完全な悟りに到達したということなのでしょう。
考えようによっては、人生は無限のループです。ただ「悟り」というベクトルだけがあります。焦ることなく、階段を一歩一歩上がるのみです。途中で力尽きて全然構わない。むしろそれが当たり前。でも上がっていくことだけを考えていれば良いわけです。楽なもんです。
でも、「上がる」とはどういうことでしょうね。このことはまた考えてみましょう。
他人の短所は、ことこまかに心配って取り繕ってあげる
菜根譚(第122節)の言葉です。
「他人の短所は、ことこまかに心を配ってとりつくろってあげることが必要である。もしその短所を暴き立てて示すなら、それは自分の短所で人の短所を責めるようなもので、それでは他人の短所を改めさせることはできない。後略」(『菜根譚』講談社学術文庫より)
誰であっても欠点があって、周りの人は、その人の良い所より欠点を見ようとし、さらに暴き立て、責めようとします。それも一番大本の心は、その人の短所を改めさせようという思いから来ているのですから、その心に素直であるなら、やさしく、さり気なく取り繕ってあげるのが一番気づきを与えることになると思います。
欠点を見ようとするのは、自分の側にある劣等感が絡まってしまうからでしょうね。だとしたら人の短所を責めるのは、自分の劣等感を曝け出すということです。
人の短所を、やさしく、さり気なく取り繕うとき、自分の劣等感も消えていくことでしょう。