from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

生まれ変わること

 浄土宗や浄土真宗では、死後は、この上なく清らかな極楽の国、「浄土」に生まれる事になっていまる。これを「往生」といいます。キリスト教では死後は天国に生まれるといいます。同じ発想といってよいでしょう。生前の行いが悪ければ地獄に生まれるという脅し文句で、善業に人々を向かわせようとするのも仏教、キリスト教とも同じ発想かと思います。ただ浄土系では、地獄ということはあまり言いませんが。

 輪廻については、仏教以前からインドに定着していた考え方で、お釈迦様は、完全な悟りを開けばもはや生まれ変わることはないと説きました。つまり、生まれ変わるのはまだ悟りに至っていないからだということです。そして生まれること自体が「苦」であるとしました。私たちは自分の身に降り注ぐ「苦」にきちんと自分で向き合うことで、少しずつ悟りに向かいます。決して自分の「苦」を他者のせいにしないことが大事です。といって自分を責めるのとも違います。「苦」を「苦行」と受け止め、さらに「修行」へと突き進み、最終的に「遊行」と捉えられるようになれば、そこは悟りの世界です。

 ところで、死後は生まれ変わる説と、浄土(天国)・地獄説とありますが、どちらが正しいのでしょうか。もちろん無に帰すという考え方もあります。

 大事なのは、どう考えるのが一番自分的にしっくりするかということではないでしょうか。

 正しい答えがあるわけではないということは、おそらく誰もがわかっていることと思います。であれば、自分が楽になれる考え方が一番正しいと思えばよいと、私は気楽に考えます。しっくり来ない教えを我慢して信じることはありません。

 私は生まれ変わるという考えがしっくりします。未来へも過去へも生まれ変われると夢想します。縄文時代に生まれ変わってみたいものだと思います。

 ただ、生きている間に少しずつ悟りのレベルを上げて、次の生を迎えたいと願っています。それがお釈迦様の心に叶うことだと思います。そうやって何生か掛けて、もう生まれ変わらなくてもよいと思えるようになれば、完全な悟りに到達したということなのでしょう。

 考えようによっては、人生は無限のループです。ただ「悟り」というベクトルだけがあります。焦ることなく、階段を一歩一歩上がるのみです。途中で力尽きて全然構わない。むしろそれが当たり前。でも上がっていくことだけを考えていれば良いわけです。楽なもんです。

 でも、「上がる」とはどういうことでしょうね。このことはまた考えてみましょう。