内なるモンスターのあしらい方
自分のやることなすこと考えることに対して、強烈なダメ出しをするモンスターが住んでいるという人が、意外と多いようです。
例えば、「今日は買い物に行ったついでに、新しくできたカフェをちょっと覗いてみようかな」なんて思った途端に、「バカなこと言ってんじゃないの!!怠けててどうするの!帰って掃除しなきゃだめでしょ」とモンスターが騒ぎ出します。
口うるさいお母さんがずっと頭の中に住んでいるわけです。たとえ、本当のお母さんはもうそんなふうに言わなくなっていたとしても、モンスター的な反応がこびりついて離れないのです。
モンスターを内側に住まわせている人は、我が子や他者に対しては意外と優しい声がけをしているもので、いわゆる「自分に厳しくて他人にやさしい」人が多いようです。
やはり、内なるモンスターに対して冷静に対応するよう心がけるのが良いと思います。それは「正しい声」ではないのです。声が大きいだけです。その声を全部聞く必要はありません。自分の考え、自分の感覚を信じるように習慣づけするようにします。最初は不安だと思います。でもそのほうがずっとうまくいきますし、楽であることは徐々にわかってくるはずです。モンスターに負けずに自分を取り戻してください。
一心塾だより 第25号「哲学カフェ」
新年明けましておめでとうございます。
心の非暴力
ヨーガの根本経典と言われる『ヨーガ・スートラ』にはヨーガの修行の8段階が示され、その最初の段階として禁戒が説かれます。
禁戒は5つあり、その最初が「非暴力(アヒムサー)」です。有名なガンジーの非暴力によるインド独立運動は、ヨーガにおいて最初になされる修行が取り上げられたわけです。
非暴力は身口意(しんくい)に渡って行われなければなりません。つまり体による非暴力、言葉による非暴力、心による非暴力です。
ある程度意識の高い人なら、言葉の暴力を厳に慎んでいることでしょう。では心の暴力はどうでしょうか。これは腹が立つことがあっても、相手に対して暴力的なことを思わないようにするということです。
歎異抄に親鸞聖人が弟子に対して「わしの言葉に背かないというのなら、今から千人殺してこい」とおっしゃられたという話があります。弟子が断ると、「殺そうにも、因縁の備わらないものは殺そうと思っても殺せないのだ。逆に殺そうなどと思わなくても、因縁があれば殺してしまう。」といいます。
大事なのは、暴力的な因縁を断ってしまうことです。心に暴力的なことを思っている限りは、言葉にもやがて出ることでしょう。しかし、心に暴力的なことが思い浮かんでしまうのも何かの因縁です。これを断つにはどうしたら良いでしょうか。
仏陀は四念処経の中で、心に対する正念(マインドフルネス)、特に怒りについて次のように述べています。
「心に怒りがあるとき『自分の心には怒りがある』と気づき、怒りがないとき『心に怒りがない』と気づく。怒りが生じ始めたとき、それに気づく。すでに生じた怒りを放棄したとき、それに気づく。すでに放棄した怒りがそれから後にも生じないとき、それに気づく。」(ティク・ナット・ハン『ブッダの<気づき>の瞑想』山端法玄・島田啓介訳、p148)
このように怒りに気づくときに、暴力の因縁を断つことができると言えます。心に怒りやそこから発生する暴力的な思いが無いとき、心はとても穏やかで心地よい状態を維持することができます。
ちなみに親鸞聖人は、悪いことができないのは、その人に善悪の判断が備わっているからではなく、阿弥陀仏の本願の不思議な働きによる、と信心の立場から説かれています。怒りに気づくときに、その怒りが消えていくのは、確かに不思議な力が働いている感じがします。フォーカシングの立場から言えば、それは「言語化による心の質的変化」ということになります。案外同じことかもしれないと思ったりします。
論理と共感の際どいバランス
先日、杉田議員のLGBT批判に反駁して、自らが同性のパートナーがいることをブログで公表した日本文学者ロバート・キャンベル東大名誉教授ですが、ラジオのインタビューを聴いていて、その言葉が非常にフォーカシング的で感銘を受けました。氏のブログを読んでいたら、東京大学入学式来賓祝辞で次のように述べられていました。
「さて、大学でできること。それは頭とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと。ファクト(事実)を切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教養であると、私は考えます。(平成30年4月12日)」
「他者に説明する言葉を磨くこと」これですね。氏はこれを実践して来られたのだと納得しました。その過程で自然に自己の"体験"にアクセスして言葉を紡いで来られたのでしょう。しかも、インタビューを聴いていて思うのは、そのアクセスと言語化のスピードの速さ、選ばれる言葉の的確さ、そして語彙の豊富さ。これだけの日本語を喋る人は日本人でも少ないかもしれません。
「論理と共感の際どいバランス」。これは引用以前の文章を読まないと分かりにくいですが、他者に説明するには自分なりの論理を持たねばならず、しかし他者の心に届けるには、相手の状況に共感的でなければならず、この二つのことは確かに際どいバランスの上にあると思います。
ここからはジェンドリン哲学の出番です。フェルトセンスは自己と他の間に広がります。それを言語化するとき、「論理と共感の際どいバランス」は上手く行くことでしょう。
因果を見るということ
因果というのは原因と結果です。因果を見るというのは、原因と結果のつながりについて観察し続けるということです。
私はくしゃみが出やすい体質のようで、風呂上がりにしばらくすると立て続けにくしゃみが出ます。すると頭が熱くなってボーとしてしまいます。夏場はそんなことはありません。つまり、「湯冷めをすると、脳が急に冷えないようにくしゃみが出るのだな」と、因果が繋がりました。するとやることは一つです。湯上がりに暑いなと思っても、早めに上着を着るようにしました。
くしゃみにも感謝です。人間の体はうまくできていると思います。しかし因果を見なければ、せっかく備わった生理的な機能を無駄に発動させて、くしゃみを悪者に捉えてしまいかねません。
湯冷めしないようにするなんて、子どもでも知っていることですが、観察力を常に働かせて、あらゆるものに因果を見るようにすれば、これまでの習慣的にやっていたことが少しずつ修正されます。
人間関係においても因果を見ることが大事です。人間関係も私たちはほとんど習慣的にこなしています。どうも相手を好きになれない、違和感が残るなどの感覚を持ってしまう場合があると思いますが、こちらがどんな心持ちで相手に接しているかというところに原因を求めてみると、なにかが見えてくるはずです。
集中瞑想とマインドフルネス瞑想
お釈迦様は釈迦族の王子の身分を捨て、出家されてから有名なヨーガの先生の下で修行を積まれました。そこではヨーガの正統な修行法である集中瞑想を教えられました。
何かの対象に集中していると、最初は「“私”がその対象に集中している」という状態(ダーラナ)であったのが、次第に“私”と対象とが一体化してしまいます。この一体化状態を「サマーディ(三昧)」といいます。集中と三昧の中間の段階は「瞑想(ディヤーナ)」と呼ばれ、「ディヤーナ」は中国で音訳されて「禅那(ぜんな)」となり、縮まって「禅」となりました。
お釈迦様は優れた集中力で、すぐに先生の教えを修得し、自由自在にどんな三昧にも入れるようになりました。しかし、そこで満足することなく、さらに高い境地を目指されました。そこで取り入れた修行法がマインドフルネスです。
それまでの集中瞑想では、集中の対象が「存在する」ことが前提だったのですが、よくよく観察してみると、対象は「存在する」のではなく、縁によって成り立っていることがわかってきました。このことを「無我」と言います。そして、物事は現れては消滅していることもわかってきました。このことは「無常」と言います。マインドフルネスによって、無常・無我を体験的に理解できるようになるというのです。
例えば「怒り」という感情を対象にしたときに、怒りに集中すると、怒りは増すでしょうが、怒りをただ眺めるようにしていると、やがて消えてしまったり、怒りが「寂しさ」に変化したりするかもしれません。消えたり変化したりする様子をそのまま眺めているのがマインドフルネスです。
最近では、マインドフルネスが強調されて、集中瞑想はあまり取り上げられなくなりました。しかし、マインドフルネスの前にしばらく集中瞑想を取り入れるのは、マインドフルネスのためのウォーミングアップになって良いこともあると思います。
とくにヨーガをおこなうときは、伸ばそう(縮めよう)と狙った筋肉にきちんと集中し、その筋肉と一体化するほどの状態になれば、自在に筋肉を操れるようになることでしょう。また、呼吸法のときも、例えば息を尾てい骨に入れる、吐きながら背骨の中を尾てい骨から頭のてっぺんまで気を流すなどに集中して行うと良いでしょう。すると、その後にマインドフルネス瞑想を行うことが、非常に楽で、心地よい感じがすると思います。