2013年10月24日のツイート
@kankeri_1: 第三世代認知行動療法の一つ「ACT」の精神病理論(心理的非柔軟性)とは、「人間は言葉を持った時点から、不健全な状態を内包する存在となったと言えよう」(『ACTハンドブック』p107)。仏教心理学と見事な一致だ。言葉のない世界=感覚の世界に瞬間でも留まってみよう。
2013-10-24 12:20:56 via web
フェルトセンスは「空」・・・その4(formed sense)
フェルトセンスは二つの意味で捉えられている。これがフェルトセンス理解の混乱を招いている。
フォーカシングに長年親しんでいる人は「状況に対するからだの反応」をフェルトセンスと捉えている傾向があり、割と経験の浅い人は「からだに感じられる違和感」をフェルトセンスであると捉える傾向があるようだ。
これはフォーカシングを学ぶ際に、後者から入った方がフェルトセンスを理解しやすいという理由があるからだろう。ここから「痛みもフェルトセンス」という考えや「フェルトセンスは一つの人格を持ったまとまりとなり得る」という考えが生じる。臨床上はこうしたフェルトセンスの捉え方は便利であり、否定されるべきではないが、哲学的には前者の「状況に対するからだの反応」の方がフェルトセンス理解としては順当であろう。だからジェンドリンはTAE (thinking at edge)というフェルトセンスに基づいた新しい理論の導き方を提唱したものと思われる。臨床指向か、哲学指向かでフェルトセンス理解は異なってくると言える。
この混乱を放っておくべきではない。私は臨床指向のフェルトセンスには別な名称を与えることを提案したい。例えば「formed sense(形を与えられた感じ)」はどうだろう。フェルトセンスが大気ならば、フォームドセンスは雲である。
フォームドセンスはフェルトセンスが何らかの凝集作用を受けることで生じる。例えば偏った認知や行動のパターン化があるとき、フェルトセンスは自由な流れを妨げられ、凝集せざるを得ない。そうして生じたフォームドセンスをフォーカシングするとき、新しい認知や新しい行動が獲得されて再びフェルトセンスは自由になるのである。長くフォーカシングが為されないでいると、フォームドセンスは堅く大きくなり容易に向き合いがたいものになる。これが症状とか病気と呼ばれるものである。
フォームドセンスは縁起によって生じると言い換えても良い。般若心経的文脈ではフォームドセンスは「色(しき)」となるだろう。そしてフェルトセンスは「空」である。
フォーカシング、あるいはマインドフルネスが介在することで色即是空が成り立つ。しかし晴れたと思ったらまた雲が生じる。この世に生きているとはそういうことである。だから空即是色でもある。それもまた良しとするところが大乗仏教の醍醐味であろう。ただし「それも良し」と素直に思えるには色即是空が体感できていることが前提になる。<シリーズおわり>
2013年10月09日のツイート
フェルトセンスは「空」・・その3(縁起)
「フェルトセンス=空(くう)」とするためには、仏教側から空について解説する必要がある。
空とは実体がないということ。諸条件が織り成されることで現象として何かが現れたりもするが、条件が変わればまた消滅する。まさに空(そら)に浮かぶ雲のごとしである。あらゆるものが雲のように、実体があるように見えて実はただ縁によって成っている。だから空とは、実体がないということのみを意味しているのではなく、私たちが“実体”と認識しているものはすべて縁起によっていることを意味している。
そして私たちが“実体”と認識しているものには物質的なものと心理的なものがあることを仏教では強調している。
例えば「私の中には怒りがある」というとき、その人は怒りを実体のように感じている。そして怒りにその人自身が振り回されているのだとしたら、まさにその人にとって怒りは“実体”であろう。また「何となく喉に詰まったよう感じがある」というときはどうだろう。そう、フェルトセンスである。これもなかなか消えてくれず、喋るのに不自由を感じたりするのであれば、やはり“実体”と感じられるだろう。
こうした心理的な“実体”が実は縁起によっているということは理解しやすいだろう。だから「心理的な“実体”=空」であり、「フェルトセンス=空」である。
しかしフェルトセンスの理解についてもう少し述べなければならないことがある。また次回で。
2013年10月06日のツイート
2013年09月29日のツイート
@kankeri_1: 生のコミュニケーションはやっぱり大事だ。「会話多い夫婦 家事分担に満足 : 大手小町」 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) URL