from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

フェルトセンスは「空」・・その2「マインドフルネス」

 前回は、フェルトセンスはからだにおける「雲」だけを指しているのではなく、「大気」全体を指していることを述べた。ただし大気全体を「フェルトセンス」と言うためには、全体をまんべんなく意識できている必要がある。その状態を「マインドフルネス」という。最近急速にもてはやされるようになった言葉だ。文字通り意識を全身に満たしている状態である。そしてからだに起こっているあらゆることに気づいている状態である。何かを考えたとしたら、「今何かを考えた」と気づいている。何気なく尻を掻いたら、「いま尻を掻いた」と気づいている。実は“何気なく”なんてことはマインドフルネスのときはあり得ない。すべてに気づいているのだから「尻を掻きたくなった」と気づくことはあっても、それが行動に移ってしまってから気づくようでは遅い。

 マインドフルネスはじっとしているときだけの状態ではない。ゆっくりした動きであれば、その動きを意識できる。例えば歩くときの身体の自然な動きを意識する。意識的に動くということではない。身体の内側から生じる自然な動きを意識によってトレースしているのである。変な癖の付いた歩き方をしている人でも、マインドフルに歩けば次第に美しい歩き方に変化していくことだろう。それは既製の美しい歩き方に矯正するということではもちろんない。一歩一歩あるく、その瞬間の筋肉の協働と路面の状態、周りの様子など内外のすべての状況にフェルトセンスが反応して最も理に適った一歩が踏み出されるという美しさである。からだが何の妨げもなくそのように反応している様子をきちんと観察できていることがマインドフルネスであり、またそのように観察できているとき、変な癖から抜け出せる。

フェルトセンスは「空」・・・その1

空(そら)の話からしよう。空は大気に満たされている。気温や気圧、上空の風、海の温度、季節、前線など非常に複雑な条件の下に今日ただいまの天気が成され、我々はそれを体験している。

 私たちのからだの中にも同様の「大気」が満ちている。その大気は生きている私たちのからだの中で外的な条件、内的な条件に反応して雨をふらしたり、風を吹かせたりする。そう「こころの天気」である。からだを満たしている「大気」のことは、やはり「気」と呼ぶのが相応しいのだろうが、「元気」「やる気」「気配り」など、あまりに日常語として流通している言葉を使うことはせず、「フェルトセンス」と呼ぶことにしたい。

 フォーカシングをある程度勉強された方なら、ここは「体験過程(experiencing)」と呼ぶべきところと思われるだろう。この二つの用語は同じはたらきを指しているのだが、「体験過程」は意識されないところではたらいており、「フェルトセンス」はそのはたらきが意識されている。
 呼吸を例に取ればわかりやすいだろう。意識していなくても呼吸は為されているが、我々は呼吸というはたらきを意識することもできる。また、意識することで呼吸の仕方を変えることができるように、フェルトセンスも意識されたことによって影響を受けることになる。というわけで体験過程とフェルトセンスは同じはたらきだが、少しの違いがある。これからの話は、からだを満たしているはたらきについての話であるのだから、当然それについて意識が及んでいる。だから「フェルトセンス」と呼ぶ必要がある。

 フォーカシングの学びは次のような問いかけで始まる。「からだにそっと注意を向けたときに胸やおなかにどんな“感じ”がありますか。そしてその“感じ”は、どんな具体的な状況を反映してのものなのでしょうか」。あるいは逆に、「今直面しているある状況を思うときに、どんな“感じ”がからだに生じてくるのでしょうか」。この時の“感じ”が「フェルトセンス」であると教わる。
 そのフェルトセンスは、天気で喩えれば「雲」であろう。雲は大気の一部だが、大気そのものではない。からだを満たしているはたらきに対して敏感になるほど、雲だけをフェルトセンスと呼ぶわけにはいかなくなる。すっと吹き抜けるさわやかな風、湿って重たい空気、朝焼けの彩り、それらすべてがフェルトセンスであり、我々に対して何らかの示唆を与えてくれている。
 

2013年09月18日のツイート

雑談フォーカシング

恒例の「夏の会」(島根学校教育相談学会主催2泊3日)に世話人として参加してきました。今回はフォーカシング・サンガのやり方を踏襲しつつ、「雑談フォーカシング」という新しい試みを取り入れました。
 円座して雑談しながら、ちょっと気持ちの入った話題に対してリスナー(あらかじめ世話人から指名を受けている。約1時間で交代)がすかさず「ふーん、・・・・なんですね」とリピートを入れるという手法です。するとそこから話者は自然にフォーカシングモードになっていきます。雑談ですから、フォーカサー・リスナー関係に他のメンバーも自由に割り込んできますが、フォーカサーのプロセスを乱さず、むしろ促進的になるように世話人が気を遣います。また世話人は、リスナーのコーチ役を務めます。リスナーも馴れている人はファシリテーター役も合わせて担います。個人のプロセスと場のプロセス、両方を感じ取る力が養われます。学校の先生が多く参加する会ですので、担任として力量が上がることが期待されます。もちろんフォーカシング指向カウンセリングの練習にもなります。
 でも、どうしてもフォーカシングの技術だけでは雑談の雰囲気を保つのは難しいので、解決志向療法や甘え療法、認知行動療法の考え方を織り交ぜることになります。それも良い勉強になります。そして時々フォーカシング・サンガの伝統である瞑想を入れます。これが雑談を単なる雑談に止めさせない仕掛けになっていると思います。涙と笑いに満ちた3日間になりました。私も雑談力がアップした気がします。