from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

ちょっとだけがんばるコツ

 「がんばる」とか「がんばって」という言葉が、人によっては辛く響く場合があるので、あまり使われなくなってきたように感じています。

 でも、がんばりたいこともあるんですよね。そういうときに「がんばれ」と言ってもらうと励みになることも確かです。だから本人ががんばっているときは「がんばってるね」と言い、「がんばりたい」と表明しているときは「がんばれ」と言い、くたびれた感じのときは、がんばれとは言わず、「大変だね」とねぎらうのが良いのではないでしょうか。

 最近は私は、いまブームでもある筋トレをしていますが、例えば腕立て伏せで何とか10回できるところを、休み休みでもがんばって12回やると、次の日、10回やることが楽に感じられます。力がついたんだ、と嬉しくなりますし、達成感を感じます。

 新聞を読むにしても、専門家が寄稿した長い文章などは無視したくなりますが、ちょっとがんばって読むようにすると、だんだん抵抗なく読めるようになります。筋肉と同じように読書力がついてくるのだと思います。

 同じように、ちょっとめんどうだとか、自分には無理だと避けてしまっていることでも、ちょっとずつがんばることで、言い換えれば、ちょっとずつ向き合うことで、必ず進歩していきますし、それには満足感も達成感も伴います。それがちょっとだけがんばるコツだと思います。子どもにもそのように伝えたいですし、高齢者にもそのように伝えたいです。何歳であってもがんばることは可能だと思います。

フェルトセンスと体験過程 (一心塾だより 第27号)

 「よくわからないけど、何だかモヤモヤするような感じが胸の奥の方にある」というように、フェルトセンスがすでに感じられているとき、フォーカシングの手順としては、それがどんな事柄と関連したフェルトセンスなのか問いかけたり探ったりしてみます。また、そのモヤモヤの位置や大きさ、形、色、材質などを確認していき、取り扱いやすい一塊になってきたら、それが何を自分に伝えようとしているのかを、フェルトセンスの立場に立って推察してみます。そのようにして、そのフェルトセンスとの良い付き合い方ができるようになれば、からだ全体がいい感じになります。

 私たちのからだは常に何かを感じています。この「感じ」、別の言い方では「今体験していること」のことを「体験過程」とフォーカシングでは言います。

 体験過程を、例えば億万のプランクトンが漂う海のようなものとイメージしてみましょう。暑さが続いて海の環境が少し変化し、一部のプランクトンが死にかかって海が変色しています。ちょっと様子が変だとある女性が気づいて、海に声をかけたら、瀕死のプランクトンが集まってフェルトセンスが形成されました。彼女が「どうして欲しいの?」とフェルトセンスに尋ねたら、「冷やしてほしい」と訴えているような気がしました。彼女が大きな氷で海を冷やすと、海は元の輝く青さを取り戻しました。

 フェルトセンスは、体験過程に意識を向け「最近どう?」と声をかけ、いろいろ話を聴くことでようやく形成されます。常にからだのどこかに存在しているわけではないのです。一方、体験過程は私たちの存在の基本です。自分と関係しているあらゆる対象に反応して、暗黙の意味を宿しています。体験過程は敢えて言えば神のような存在ですが、フェルトセンスは体験過程から生まれた子どものような存在で、駄々をこねたり、拗ねたりして甘えています。

 日頃からセルフ・フォーカシングなどで体験過程と向き合っている人は、フェルトセンスを経由しなくても、体験過程の暗黙の意味から言語的に意味を抽出できるのではないかと私は考えています。あるいは体験過程をフェルトセンスではなくイメージや絵、物語などに一旦置き換えてから意味を見出すことも可能でしょう。

 ですからフォーカシングにおいて大事なのは、フェルトセンスを見つけることではなく、何かについて、なんでも良いのですが、体験過程尺度が深まるように話すこと、自己探求することであり、相手の体験過程尺度が深まるような聴き方、応答の仕方をすることであると言えるでしょう。

 

 

 

環境への甘え

 一人の人間にとって、自分以外のすべてのものは「環境」である。例えば口うるさい親がいるとしたら、それも環境である。もちろん家が裕福であるとか、貧乏であるとか、そういうことも環境である。環境とは私たちが「付き合っていく」対象である。

 「自分以外のすべて」と言ったが、実は自分の容姿とか、体質、嗜好、考え方の癖なども「付き合っていく対象」という意味では環境である。

 環境はなかなか変えがたいものではあるけれども、きちんと向き合い、付き合い方を工夫することで案外変化して、良い環境になっていったりもする。素顔が少々気に入らなくても、化粧によってお気に入りの自分になれるし、口うるさい親に対して、少しやさしく接するようにしたら、うるさくなくなるかもしれないのである。

 環境は甘えの対象になりやすい。裕福な家庭に生まれ育った人が、貧乏な暮らしをせざるを得なくなったとき、そのように仕向けた存在(家族?会社?、あるいは国?)に愚痴を言うことになるだろう。甘えないとは、与えられた環境に向き合い、なんとか工夫しながら生きていくことである。また、今が楽な環境であるなら、その環境に甘えていられる自分を自覚し、厳しい環境に生きる人々を思いやることである。

 

 

「向き合う」ということ

 ヨーガのアーサナ(ポーズ)を行うときに、「一番刺激のあるところに集中します」と指導してたのだが、今日から「一番刺激のあるところに向き合います」と、言い方を改めることにした。

 「意識を向ける」という意味では両者は同じことなのだが、「集中」の対象がどちらかというと事柄やモノであるのに対して、「向き合う」対象は人、生きもの、事柄になるだろう。アーサナの最中は刺激を生じている筋肉に意識を向けているが、筋肉をモノと捉えれば「集中」で良いだろう。しかしアーサナの目的は筋肉の状態をより良く変化させることである。どちらかといえば筋肉を「生きもの」として捉えて、その意向を探りながら丁寧に対応していくことが求められる。ならば「向き合う」という言葉を使ったほうがしっくりくる。

 向き合うことによって、何かの変化が生じる。生きているもの同士が向き合うのだから、そこには何らかの相互作用がある。こちらが相手をどうにかしてやろうという意図を持っていれば、相手はきっと抵抗するだろう。こちらが聴く姿勢を持てば、相手は心を開くだろう。

 アーサナのときは筋肉または身体という生きものに耳を傾けるのである。

 同様に瞑想のときは、心という生きものに向き合う。こちらはだいぶん手強い。しかし時間を掛けてゆっくりと、ただゆったり向き合うのが良いだろう。お互いが心を開くのが良いだろう。そして何年も瞑想を続けているうちに、私たちは心と仲良くできるようになる。

 考えてみれば、カウンセリングもそのように向き合うことである。それ以外の何者でもないのかもしれない。

あなたはどう変わりたいのか?

「教育は変化を求める」という命題をもう少し考えてみたい。

 変化を求めるのが、他者や組織であればきついストレスを感じることになる。時々は暴力を伴うこともある。学校で体罰、会社でパワハラが無くならないのは、変化を求めているからに他ならない。もし、変化を求めるのが他者や組織ではなくて、自分自身であれば様相は大きく変わるだろう。

 その場合、教育者は「あなたはどう変わりたいのか?」と問うことが重要になる。そう考えると、今までの教育は「あなたは、こう変わらなければならない」という押しつけがあったことになる。この「こう」とは、文科省が決めたことかもしれないし、学校ごとの、あるいは会社などの組織の決めたことであるだろう。そこには文科省、学校、組織の都合というものが見え隠れする。決して個人の都合ではない。そこには、「個人の都合なんてわがままなものに決まっている」という前提が存在する。それでは、教育は悪い意味での「宗教」に過ぎない。

 「あなたはどう変わりたいのか?」と問うときに、個人の中に主体性が生じる。そして出てきた答えに対して、それがどこかから借りてきた理想を語るようであれば、教育者は「本当にそれがあなたの求めることなのか?」と何度も突き返して吟味させる必要があるだろう。その人のからだから出てきた言葉であり、教育者も本当に納得できる答えでなければ「それで良い」と言ってはならないのである。この問答の最中にすでにその人は最初の変化を遂げるだろう。

 もし、「自分はこのままで良い」という人がいたら、叱り飛ばさなければならない。その人はからだの意向を無視している。生きるということに対して高をくくってはいけない。からだは生きよう、変化しようとしているのだ。その変化の方向性を意識の方でも理解しないと、うまく変化していかない。教育者はそのへんの手助けをしてやるべき存在ではないだろうか。

 

変化を求める教育と、自発的変化を促すカウンセリング

 私が力を入れて行っているフォーカシング・サンガでは、安全・安心ルールというものがあって、「守秘義務」、「どんな気持ちも尊重する」、「変化を求めない(心が自発的に拓ける過程を尊重し、支援する)」となっている。

 中でも「変化を求めない」ということは、なかなか難しい。私たちは幼い頃から躾や教育において変化を求められ続けてきたからだ。しかし、求められて来たものに私たちは成れているのかと是非、自分自身に問うてみていただきたい。

 成れている部分もあれば、成れていないところもある。そんな感じではないだろうか。例えば、「これからの時代、英語を話せるようにならないといけません」、そう国からの方針で教育を受けてきたのだが、一向に話せるようにはなっていない。話せるようになった人は、おそらく自分で自発的に変化していった人ではないだろうか。

 求められる変化が、その人のニーズに合っているかどうかが鍵になるのだろう。

 カウンセリングでは、クライエントのニーズを掘り下げていく。あなたはどうなりたいのだろうかと、何度も、無理のないアプローチによって問いかけられる。しかし教育は往々にして「こうあったほうが良い」という「理想の形」があって、それは変化を求められる側のニーズとは関係なしに、ときに押し付けられる。

 たまたまニーズにあっていれば受け入れられるだろうし、合っていなければ撥ね付けられる。もし、ニーズを相手の中に作っていこうと巧妙に仕組むのであれば、それは洗脳である。最も恐ろしい人格操作だ。

 教育はどうあるべきなのか。問いは深まるばかりである。

「一致的応答」 一心塾だより 第26号

 相手の気持ちが楽になり、自然な変化が促される対話法として二つの態度があります。
 一つは相手の身になって聴く、共感的傾聴。もう一つは共感的傾聴を一区切りした後に、自分の心に湧き上がっていることを相手に伝えること。こちらの方は「一致的応答」と名前を付けておきます。自分の本心と一致した応答をするからです。フォーカシング・サンガではフォーカシングセッションにおいて共感的傾聴、クロッシングタイムにおいて一致的応答がなされるよう促されています。

 ジェンドリンは「体験的応答」という1968年の論文でこう述べています。「私の反応は私たちの相互作用の一部である。それはクライエントに返さなくてはならないし、それによってクライエントが、相互作用の、今は私の側に起こっているその部分を次に進めることができる。もし私が反応を返さなかったら、私たちはそこで行き詰まってしまう。もちろん、私には自分の応答の仕方についての責任がある。つまり、私は応答の際、自分の反応をクライエントに正直に、反応を見える形で返さなくてはならないし、クライエントが私の中に起こしたことに対してさらに応答できるよう行動しなくてはならない(この論文はTIFIの日本語ページhttp://www.focusing.org/jp/6steps_jp.htmlから読めます)」

 本当に正直であるというのは、なかなか厳しいものです。つい遠慮しますから。でも配慮は必要です。配慮しつつできるだけ正直な反応を伝えるのが対話の醍醐味ではないでしょうか。

 ここで気を付けなければならないのが、安全・安心ルールにもなっている「変化を求めない」ということです。「あなたはもっと~した方がいいと思うよ」と言いたくなるのですが、これは一致的応答というより頭の反射的な反応と言えます。つまり概念からの反応です。通常の会話の大半は概念と概念のぶつかり合いで、体験過程尺度としては低いレベルに留まっています。概念からの反応をしたくなる手前の正直な気持ちは「なんかイラっとする」とか「教えてあげたいっ」とか、そんな感じかもしれないですね。その気持ちを自分で捕まえたときに、30秒くらいセルフ・フォーカシングしたら配慮の利いた一致的応答ができるのかもしれません。それはフォーカサーの自然な変化を大いに促すことになるでしょう。