from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

あなたはどう変わりたいのか?

「教育は変化を求める」という命題をもう少し考えてみたい。

 変化を求めるのが、他者や組織であればきついストレスを感じることになる。時々は暴力を伴うこともある。学校で体罰、会社でパワハラが無くならないのは、変化を求めているからに他ならない。もし、変化を求めるのが他者や組織ではなくて、自分自身であれば様相は大きく変わるだろう。

 その場合、教育者は「あなたはどう変わりたいのか?」と問うことが重要になる。そう考えると、今までの教育は「あなたは、こう変わらなければならない」という押しつけがあったことになる。この「こう」とは、文科省が決めたことかもしれないし、学校ごとの、あるいは会社などの組織の決めたことであるだろう。そこには文科省、学校、組織の都合というものが見え隠れする。決して個人の都合ではない。そこには、「個人の都合なんてわがままなものに決まっている」という前提が存在する。それでは、教育は悪い意味での「宗教」に過ぎない。

 「あなたはどう変わりたいのか?」と問うときに、個人の中に主体性が生じる。そして出てきた答えに対して、それがどこかから借りてきた理想を語るようであれば、教育者は「本当にそれがあなたの求めることなのか?」と何度も突き返して吟味させる必要があるだろう。その人のからだから出てきた言葉であり、教育者も本当に納得できる答えでなければ「それで良い」と言ってはならないのである。この問答の最中にすでにその人は最初の変化を遂げるだろう。

 もし、「自分はこのままで良い」という人がいたら、叱り飛ばさなければならない。その人はからだの意向を無視している。生きるということに対して高をくくってはいけない。からだは生きよう、変化しようとしているのだ。その変化の方向性を意識の方でも理解しないと、うまく変化していかない。教育者はそのへんの手助けをしてやるべき存在ではないだろうか。

 

変化を求める教育と、自発的変化を促すカウンセリング

 私が力を入れて行っているフォーカシング・サンガでは、安全・安心ルールというものがあって、「守秘義務」、「どんな気持ちも尊重する」、「変化を求めない(心が自発的に拓ける過程を尊重し、支援する)」となっている。

 中でも「変化を求めない」ということは、なかなか難しい。私たちは幼い頃から躾や教育において変化を求められ続けてきたからだ。しかし、求められて来たものに私たちは成れているのかと是非、自分自身に問うてみていただきたい。

 成れている部分もあれば、成れていないところもある。そんな感じではないだろうか。例えば、「これからの時代、英語を話せるようにならないといけません」、そう国からの方針で教育を受けてきたのだが、一向に話せるようにはなっていない。話せるようになった人は、おそらく自分で自発的に変化していった人ではないだろうか。

 求められる変化が、その人のニーズに合っているかどうかが鍵になるのだろう。

 カウンセリングでは、クライエントのニーズを掘り下げていく。あなたはどうなりたいのだろうかと、何度も、無理のないアプローチによって問いかけられる。しかし教育は往々にして「こうあったほうが良い」という「理想の形」があって、それは変化を求められる側のニーズとは関係なしに、ときに押し付けられる。

 たまたまニーズにあっていれば受け入れられるだろうし、合っていなければ撥ね付けられる。もし、ニーズを相手の中に作っていこうと巧妙に仕組むのであれば、それは洗脳である。最も恐ろしい人格操作だ。

 教育はどうあるべきなのか。問いは深まるばかりである。

「一致的応答」 一心塾だより 第26号

 相手の気持ちが楽になり、自然な変化が促される対話法として二つの態度があります。
 一つは相手の身になって聴く、共感的傾聴。もう一つは共感的傾聴を一区切りした後に、自分の心に湧き上がっていることを相手に伝えること。こちらの方は「一致的応答」と名前を付けておきます。自分の本心と一致した応答をするからです。フォーカシング・サンガではフォーカシングセッションにおいて共感的傾聴、クロッシングタイムにおいて一致的応答がなされるよう促されています。

 ジェンドリンは「体験的応答」という1968年の論文でこう述べています。「私の反応は私たちの相互作用の一部である。それはクライエントに返さなくてはならないし、それによってクライエントが、相互作用の、今は私の側に起こっているその部分を次に進めることができる。もし私が反応を返さなかったら、私たちはそこで行き詰まってしまう。もちろん、私には自分の応答の仕方についての責任がある。つまり、私は応答の際、自分の反応をクライエントに正直に、反応を見える形で返さなくてはならないし、クライエントが私の中に起こしたことに対してさらに応答できるよう行動しなくてはならない(この論文はTIFIの日本語ページhttp://www.focusing.org/jp/6steps_jp.htmlから読めます)」

 本当に正直であるというのは、なかなか厳しいものです。つい遠慮しますから。でも配慮は必要です。配慮しつつできるだけ正直な反応を伝えるのが対話の醍醐味ではないでしょうか。

 ここで気を付けなければならないのが、安全・安心ルールにもなっている「変化を求めない」ということです。「あなたはもっと~した方がいいと思うよ」と言いたくなるのですが、これは一致的応答というより頭の反射的な反応と言えます。つまり概念からの反応です。通常の会話の大半は概念と概念のぶつかり合いで、体験過程尺度としては低いレベルに留まっています。概念からの反応をしたくなる手前の正直な気持ちは「なんかイラっとする」とか「教えてあげたいっ」とか、そんな感じかもしれないですね。その気持ちを自分で捕まえたときに、30秒くらいセルフ・フォーカシングしたら配慮の利いた一致的応答ができるのかもしれません。それはフォーカサーの自然な変化を大いに促すことになるでしょう。

志を持つということ

 4年前の大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰伊勢谷友介が好演していました。松陰は多くの格言を残していますが、ドラマの中で「君の志は何か」と塾生に問う場面が胸に響きました。それ以来、ときどき私も、「君の志は何か」と自分自身に問うようにしています。

 「生きがい」とは少し違います。やはり「志」という言葉を使うときは背筋がピンと伸びる感じがします。生きがいというと「自分が楽しめること」という感じがありますが、志は自分というものを超えている感じがします。もしかしたら、かなり辛い道のりかもしれないけれど、その道を進むのは無常の喜びです。

 誰の心の中にも志はあると思います。しかしはっきり見えている人は少ないかもしれません。だから松陰のように問い続ける必要があります。

 問い続けていれば、ぼんやりしたものがやがてはっきりしてきます。年齢は関係ありません。たとえ80歳であっても、80歳なりの志を持つことができます。しかしたとえ20歳であっても、志が見えていなければ、人生は長い暇つぶしか、牢獄です。

 志をはっきりさせるためのいくつかの要点を挙げてみます。

  • 「志は何か」と問い続けること
  • 志には、胸が熱くなるような感覚がある
  • 志には、はっきりした方向性がからだに感じられる
  • 志を遂げるために何をすればよいかという、具体的な方策が頭に浮かびやすい
  • 所属する組織や、影響力のある他者からの洗脳ではないことが自分でわかっている

さり気ないやさしさ

「立ってる者は親でも使え」と言うことわざがあります。「悪いけど、それ取ってくれない?」と、「悪いけど」という言葉でも頭につけてくれれば、一応こちらの人格を尊重してくれているのだなと思って、快く応じられますが、命令調に言われると腹が立ちます。

 世の中には他人を道具みたいにしか思っていない、自分勝手な人がいるものです。例えば自分が腹が立っていれば人をストレス発散の道具とするとか、お金がなければ人の財布を自分のATMみたいに思うとか。損得感情や上下意識しかなくて、人を大事にするなんて発想は、冗談の中にしかないのです。そういう人に人権の大切さを説いても、たぶんあまりピンとは来ないのではないでしょうか。

 他人を道具にしか思わない人というのは、心を大事に扱われた体験が足りないのだと思います。その結果心の守りが脆弱で、攻撃的にしか人に関われないのではないでしょうか。

 そのような人と接するときは、道具のように扱われたときに不快感を述べるのが良いと思います。人には感情があるということ、誰だって大切にされたいと望んでいるということを何度でも伝える必要があります。

 もちろんそのような人も自身も大事にされたいと心の底から望んでいます。ところが大事にすると、こちらを利用しようとしてきますので迂闊にはやさしくできません。

 ポイントは「さり気なさ」ではないでしょうか。大事にされていると気づかれないくらいのさり気ないやさしさが効果的だと思います。これは誰に対しても効果的です。

 実際、私たちはいつでもさり気ないやさしさに包まれています。それは失って初めて存在に気づくようなさり気なさで周囲に存在しています。失う前に気づくべきです。気づいて感謝していれば、ずっと幸せでいられることでしょう。

内なるモンスターのあしらい方

 自分のやることなすこと考えることに対して、強烈なダメ出しをするモンスターが住んでいるという人が、意外と多いようです。

 例えば、「今日は買い物に行ったついでに、新しくできたカフェをちょっと覗いてみようかな」なんて思った途端に、「バカなこと言ってんじゃないの!!怠けててどうするの!帰って掃除しなきゃだめでしょ」とモンスターが騒ぎ出します。

 口うるさいお母さんがずっと頭の中に住んでいるわけです。たとえ、本当のお母さんはもうそんなふうに言わなくなっていたとしても、モンスター的な反応がこびりついて離れないのです。

 モンスターを内側に住まわせている人は、我が子や他者に対しては意外と優しい声がけをしているもので、いわゆる「自分に厳しくて他人にやさしい」人が多いようです。

 やはり、内なるモンスターに対して冷静に対応するよう心がけるのが良いと思います。それは「正しい声」ではないのです。声が大きいだけです。その声を全部聞く必要はありません。自分の考え、自分の感覚を信じるように習慣づけするようにします。最初は不安だと思います。でもそのほうがずっとうまくいきますし、楽であることは徐々にわかってくるはずです。モンスターに負けずに自分を取り戻してください。

一心塾だより 第25号「哲学カフェ」

新年明けましておめでとうございます。

 昨年は皆さまにとってどんな一年だったでしょうか。今年はどんな一年になりそうでしょうか。
 僕は、昨年は「哲学カフェ」と出会った年でした。だんだん参加者も増え、12月には20人で「生きがいって何?」というテーマで考えを深めていきました。
 今生きていることそのものに意味があるのだから、特別に「生きがい」とか求めなくてもいいじゃないかとか、未来に楽しみなことがあるからそれが生きがいなのだとか、「生きがいを持ちなさい」なんて上から目線で言われたくないとか、様々な考えが述べられていました。
 日本に哲学カフェの種を巻いた哲学者の鷲田清一さんは「『察し合う』コミュケーション文化よりも大事なことは、参加者がたがいに異なる《生》の感触を摺り合わせる中で、それぞれが自らの問題設定の隠れた前提に気づいてゆくことであろう」(『哲学カフェのつくりかた』より)と述べています。12月の哲学カフェでは正に、「生きがい」という一つの言葉に対する《生》の感触が摺り合わされ中で、自分と他者の感じ方の違いを知り、そこから確かに自分の「隠れた前提」に気づかされていったように思います。
 確かに、普段は「相手はこんなふうに思ってるのだろうな」と察し合いつつ、あるいは決めつけて、人付き合いしているわけですが、案外話し合ってみたら「違ってた」ということは往々にありますね。それは非常に非生産的なことだと思います。やはり、真摯に他者の言葉とその背景にある感触を聴くという、時間を掛けたコミュニケーションを心がけたいと、改めて思います。
 さて、フォーカシングの創始者ジェンドリンは、《生》の感触とは何かということを、とことん研究した哲学者であったと言えます。 《生》の感触と、すでに出来上がっている概念の間にフェルトセンスが生じ、そこにフォーカスすることで、新たな言葉や概念が生まれるわけです。哲学カフェとは相性が良いように思います。フォーカシング・サンガは哲学カフェからどんな影響を受けるのか、また試行錯誤の一年になることでしょう。お付き合いのほど、どうかよろしくお願いします。