from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

「自我」の3つの意味

 「あの人には自我の強いところがある」という言い方には、少し否定的なニュアンスがあります。「我が強い」とも言います。「自分にこだわりがあって、他者を受け入れることができにくい」という意味に使われていると思います。そこから「自分にこだわりがなく心が広い」人を「無我」と捉えるのではないでしょうか。

 本来の仏教的な意味での「無我」は、「それだけで単独に存在するものはない」という哲学的真理を表しています。どんなものも関係の中にのみ存在しているといことです。

 「我が強い」人は、自分の意見や考えに自信があって、他を寄せ付けないところがあるのですが、「自分が絶対」と思うことは、やはり本来的な意味での「無我」から外れていますね。

 ところで心理学では「自我」はどんな意味を持っているのでしょうか。フロイトの創始した精神分析では自我は、「こうであるべき」という社会的な要請と「こうしたいなあ」という内なる欲求の間に立って右往左往している「機能」であるという位置づけです。ですから「自我機能」という言い方をしたほうがいいかもしれません。

 しかしこの自我機能も、鍛えることで社会的要請と内なる欲求をうまくマネジメントできるようになります。そうなるとストレスを感じることなく、社会の中でのびのび行きていけます。そんなパワフルな自我機能を持つためにも、人の考えを受け入れたり、社会のために働いたりして、「無我」に近づいたほうが良いのではないでしょうか。

生まれ変わること

 浄土宗や浄土真宗では、死後は、この上なく清らかな極楽の国、「浄土」に生まれる事になっていまる。これを「往生」といいます。キリスト教では死後は天国に生まれるといいます。同じ発想といってよいでしょう。生前の行いが悪ければ地獄に生まれるという脅し文句で、善業に人々を向かわせようとするのも仏教、キリスト教とも同じ発想かと思います。ただ浄土系では、地獄ということはあまり言いませんが。

 輪廻については、仏教以前からインドに定着していた考え方で、お釈迦様は、完全な悟りを開けばもはや生まれ変わることはないと説きました。つまり、生まれ変わるのはまだ悟りに至っていないからだということです。そして生まれること自体が「苦」であるとしました。私たちは自分の身に降り注ぐ「苦」にきちんと自分で向き合うことで、少しずつ悟りに向かいます。決して自分の「苦」を他者のせいにしないことが大事です。といって自分を責めるのとも違います。「苦」を「苦行」と受け止め、さらに「修行」へと突き進み、最終的に「遊行」と捉えられるようになれば、そこは悟りの世界です。

 ところで、死後は生まれ変わる説と、浄土(天国)・地獄説とありますが、どちらが正しいのでしょうか。もちろん無に帰すという考え方もあります。

 大事なのは、どう考えるのが一番自分的にしっくりするかということではないでしょうか。

 正しい答えがあるわけではないということは、おそらく誰もがわかっていることと思います。であれば、自分が楽になれる考え方が一番正しいと思えばよいと、私は気楽に考えます。しっくり来ない教えを我慢して信じることはありません。

 私は生まれ変わるという考えがしっくりします。未来へも過去へも生まれ変われると夢想します。縄文時代に生まれ変わってみたいものだと思います。

 ただ、生きている間に少しずつ悟りのレベルを上げて、次の生を迎えたいと願っています。それがお釈迦様の心に叶うことだと思います。そうやって何生か掛けて、もう生まれ変わらなくてもよいと思えるようになれば、完全な悟りに到達したということなのでしょう。

 考えようによっては、人生は無限のループです。ただ「悟り」というベクトルだけがあります。焦ることなく、階段を一歩一歩上がるのみです。途中で力尽きて全然構わない。むしろそれが当たり前。でも上がっていくことだけを考えていれば良いわけです。楽なもんです。

 でも、「上がる」とはどういうことでしょうね。このことはまた考えてみましょう。

他人の短所は、ことこまかに心配って取り繕ってあげる

菜根譚(第122節)の言葉です。

「他人の短所は、ことこまかに心を配ってとりつくろってあげることが必要である。もしその短所を暴き立てて示すなら、それは自分の短所で人の短所を責めるようなもので、それでは他人の短所を改めさせることはできない。後略」(『菜根譚講談社学術文庫より)

 誰であっても欠点があって、周りの人は、その人の良い所より欠点を見ようとし、さらに暴き立て、責めようとします。それも一番大本の心は、その人の短所を改めさせようという思いから来ているのですから、その心に素直であるなら、やさしく、さり気なく取り繕ってあげるのが一番気づきを与えることになると思います。

 欠点を見ようとするのは、自分の側にある劣等感が絡まってしまうからでしょうね。だとしたら人の短所を責めるのは、自分の劣等感を曝け出すということです。

 人の短所を、やさしく、さり気なく取り繕うとき、自分の劣等感も消えていくことでしょう。

ロジャーズの3条件とフォーカシング

 有効なカウンセラーであるための中核的な条件として、ロジャーズが「自己一致」、「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」という3条件を示したことは非常に有名で、ロジャーズ派のカウンセラーはこれを金科玉条のごとく守ろうとしてきました。
 「自己一致」とは、心と言葉がうらはらではいけないということです。しかしフォーカシングに馴染んでいる者は、心と言葉が簡単に一致しないことをよく知っています。少なくとも両者のズレに敏感であるよう心がけることが重要でしょう。
 「無条件の肯定的関心」とは、今向き合っている相手に対して、どんな偏見も排除して肯定的な関心を向けるということです。これはわかりやすいですし、そうであるべきだと思います。
 「共感的理解」は、技法的には相手の言葉の伝え返しとなりますから、「オウム返し」と批判されることが多いのですが、重要なのは理解です。「私はあなたの気持ちをこのように理解していますよ」ということが相手に伝わればいいのです。
 「共感」というと、相手と同じ気持ちにならなければいけないように取られますが、相手のマイナス感情と同じ気持ちになろうとすると、聴く方は疲弊して、聴くのが嫌になります。しかし理解が単に知的なところにとどまっていたのでは、相手は理解されたようには感じません。
 そこで重要になるのがフェルトセンスです。フェルトセンスのレベルで理解されると、それだけで相手の心に変化が生じますし、またカウンセラーも疲れません。例えば、心の天気に描かれた絵を見て、その感じを理解することはフェルトセンスのレベルの理解と言えるでしょう。私はこれを「体験的理解」と呼んでいます。もしかしたらロジャーズが「共感的理解」という言い方で、表現したかったのは「体験的理解」のことではなかったのでは?と考えています。
 フォーカシングのリスナーが徹底して鍛えるべきところは「体験的理解」です。それは技法ではありません。表には現れない心の柔軟性です。日々のセルフフォーカシングによって鍛えられるところです。

一心塾だより 第23号

ロジャーズの3条件とフォーカシング
 
 有効なカウンセラーであるための中核的な条件として、ロジャーズが「自己一致」、「無条件の肯定的関心」、「共感的理解」という3条件を示したことは非常に有名で、ロジャーズ派のカウンセラーはこれを金科玉条のごとく守ろうとしてきました。
 「自己一致」とは、心と言葉がうらはらではいけないということです。しかしフォーカシングに馴染んでいる者は、心と言葉が簡単に一致しないことをよく知っています。少なくとも両者のズレに敏感であるよう心がけることが重要でしょう。
 
 「無条件の肯定的関心」とは、今向き合っている相手に対して、どんな偏見も排除して肯定的な関心を向けるということです。これはわかりやすいですし、そうであるべきだと思います。
 「共感的理解」は、技法的には相手の言葉の伝え返しとなりますから、「オウム返し」と批判されることが多いのですが、重要なのは理解です。「私はあなたの気持ちをこのように理解していますよ」ということが相手に伝わればいいのです。
 「共感」というと、相手と同じ気持ちにならなければいけないように取られますが、相手のマイナス感情と同じ気持ちになろうとすると、聴く方は疲弊して、聴くのが嫌になります。しかし理解が単に知的なところにとどまっていたのでは、相手は理解されたようには感じません。
 そこで重要になるのがフェルトセンスです。フェルトセンスのレベルで理解されると、それだけで相手の心に変化が生じますし、またカウンセラーも疲れません。例えば、心の天気に描かれた絵を見て、その感じを理解することはフェルトセンスのレベルの理解と言えるでしょう。私はこれを「体験的理解」と呼んでいます。もしかしたらロジャーズが「共感的理解」という言い方で、表現したかったのは「体験的理解」のことではなかったのでは?と考えています。
 フォーカシングのリスナーが徹底して鍛えるべきところは「体験的理解」です。それは技法ではありません。表には現れない心の柔軟性です。日々のセルフフォーカシングによって鍛えられるところです。

リラックスして考える ― セルフ・フォーカシング ―

 今の体験に常に気づきながら行う一心塾のマインドフルネス・ヨーガ。プログラムの最後は当然マインドフルネス瞑想です。

 物音に気づき、呼吸に気づき、姿勢に気づいています。しかし一切の善悪判断や好き嫌いの感情にはまり込まないようにしています。もちろん、そういう思考や感情が沸き起こってきたときは、そのことに気づいています。しかしはまり込まないようにします。

 マインドフルネス瞑想は5分で終了して、極楽のアーサナ(仰向けで寝ることを、一心塾ではこう呼んでいます)で3分ほど休憩します。そのときに、最近気になっていることや、この機会にきちんと考えておきたいことは何か、自分に問いかけるようにします。

 そして座り直して、もう5分瞑想します。今度はセルフ・フォーカシングです。休憩中に思いついたことについて、リラックス状態で思考を深めていきます。でもときどきその思考で良いかどうか、からだの反応を確かめます。

 からだに落ち着きがあり、感情の高ぶりがなければ大丈夫です。まれにすごくいいアイデアを思いついて、からだがスッと軽くなるように感じることがあります。それは本当にいいアイデアであることを、からだが教えてくれています。

 セルフ・フォーカシングはマインドフルネス瞑想とは異なりますが、私たちが人生において出会う様々な困難に向き合っていく上で、大切な瞑想法です。しかしマインドフルネス瞑想がきちんとできるというベースが整っている必要があります。

 フォーカシングはもともと聴き手がそばにいて、話を聴きながら行うものですが、マインドフルネス瞑想が一人二役を可能にします。

体験過程尺度について

 リスナーをする上でも、日常で人の話を聴く際にも、以下の「体験過程尺度」*を知っておいて、それに当てはめながら話を聴く習慣をつけると、フォーカシングの理解やリスニングの上達に役に立つと思います。

<出来事中心の段階>

1,(体験過程尺度が非常に低い)出来事を語っているが、気持ちの表現は見られない。
2,(低い)出来事を語る中に気持ちの表現があるが、気持ちは出来事への反応として語られている。

<気持ち中心の段階>

3,(中程度)出来事への反応としてではなく、自分のあり方を表明するように気持ちが語られている。豊かな気持ちの表現が見られるが、そこから気持ちを吟味したり、状況との関連付けなどを試みたりはしない。

<創造過程の段階>

4,(高い)気持ちを語りながら、その気持を自己吟味したり、仮設を立てて気持ちを理解しようとしている。話し方には沈黙が見られることが多い。
5,(非常に高い)ひらめきを得たように、気持ちの側面が理解される。声が大きくなる。何かを確信しているような話し方に変化することがある。

 1~2辺りの話し方をしている人に対しては、「それで、それについてあなたはどう思うの?」と問えば3に行くでしょうし、3の段階のときに「どうしてそう思うんだろう?」と問えば4に行くでしょう。もしこれらの問いに、相手が即答するようであれば、「本当にそれでピッタリかなあ」と問うてみるのも良いでしょう。セルフ・フォーカシングにおいても同様に自分に問うてみたら良いと思います。

*三宅麻希、池見陽、田村隆一(2007)「5段階体験過程スケール評定マニュアル作成の試み」人間性心理学研究25-2