from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

一心塾だより 第17号

フォーカシング健康法

 
 3月18日に1回中四国フォーカシングセミナーが岡山市で開催され、福岡の森川友子先生のご指導で、フォーカシング健康法について体験的に学びました。一心より講読者の方も多く参加されました。ドイツ辺りでは医者がフォーカシングを用いて体の不調の治療にあたっているというお話もあり、びっくりしましたし羨ましくも思いました。私たちはもっと自然治癒力を信じてよいし、症状との向き合い方において柔軟であるべきなのでしょう。向き合い方の一つとしてフォーカシングを活かせるようになったら、それはとても素晴らしいことと、今回のワークショップで強く感じました。
 フェルトセンスと身体症状は別物であるとジェンドリン先生が述べていたので、フォーカシングが身体症状に適用されることは、何となくなされて来なかったという面はあります。しかしやってみたら案外効いたという実例が数々あったことも事実で、今後はフォーカシングの守備範囲が広がっていくことでしょう。
 フォーカシングを身体症状に適用する方法ですが、森川先生からいたいた資料を参考にちょっと解説しましょう。
① まず楽な姿勢を取ります。立っても座ってもOKです(立ってやるのも意外に良いものと今回はじめて体験しました)。症状のある場所にそっと注意を向けていきます。
②「痛い」とか「かゆい」とか普段のラベルを取り去って、そこにある感覚を探してみます。色、材質、音、大きさ、温度などで表現するとしたらどうでしょうか。例えば、「石のようで、表面はつるつる、ソフトボールくらいの大きさで楕円形、白っぽく、ちょっと熱っぽい」などです。このように表現できればそれはもう完全にフェルトセンスです。
③ その場所に対して何かプレゼントします。例えば、「ご苦労さま」という言葉ったり、フ~と息を送り込んり、やさしく触れてあげたり、楽な姿勢になってあげたりといったことです。何をプレゼントしたときにそこは一番良い感じになったでしょうか
④ その場所に対して「好きなようにして良いんよ」と伝えてあげます。その場所は「叫びたい」かもしれませんし、「休憩したい」のかもしれません。その場所の「わがまま」を可能な限り実現してあげてくさい。
⑤ 最後にしておきたいことはあるかな、と自分自身やその場所に尋ね、過ごしたいように過ごしてから徐々に通常の意識に戻ります。
 そういえば私は、②のフェルトセンス化のところを省略した方法で普段自分の体と付き合ってきたなあ、と気づかされます。プレゼントはヨーガのポーズであることが多いですが、昼寝をすることや、今食べたいものを食べることであったりもします。きっと誰でもある程度やっていることでしょうね。その延長上に、規則正しい生活、程度な運動と良質な食事があって、それらは全部心身に対するプレゼントなのと思います。フェルトセンス化の過程を加えることで、さらに繊細なプレゼントができそうです。「痛い」「かゆい」など、ついいつものラベルを貼って症状と付き合っていることが多いですが、そこを白紙に戻して取り組むことはとても意義深いと思います。またリスナーに聴いてもらいながら行えば注意散漫にならずにきちんと行えるでしょう。
 2回の中四国フォーカシングセミナーは11月に徳島の笹田先生を松江にお招きして行うことになりそうです。またご案内させてくさい。

一心塾だより 第16号

幸せについて
 
 あなたはいま幸せを感じているでしょうか?幸せ度は0~100%のどの辺りでしょうか。仮に60%としたら、あと何がどうなったら少なくとも80%に至るでしょうか。
 こういう問いかけは頭も使うけど、からだの感じへのアクセスが頻繁に行われるはずです。ネットや雑誌に載っている「幸せチェックリスト」に◯Xを付けて、「はいあなたの幸せ度は70%です」なんていう回答を得られたとしても、雑談の具になる程度のことです。ちっともフォーカシング的ではありません。また幸せに関する定義を持っている人がいて、その定義に従って自分や友人の幸せ度を測ろうとする人もいるでしょうが、その定義をあなたはどう感じているのかと問うべきでしょう
 そもそも「幸せ」というのは“感じられる”ものなのですから、自分の感じに照らし合わせる以外に幸せ度を知ることはできないのです。そして「幸せとは何か」ということを考えるときも、知識に拠るのではなく、自分が何を幸せに感じるかということに基いて考えをまとめていって初めて説得力のあるものになります。それは極めて主観的な話ではありますが、そこに他者の心を動かすものがあるのです。
 例えば「教育について」、「福祉について」などのテーマもからだの感じにアクセスしながら語り合うときに、既存のものでない、新しい発想が生まれてくると思います。ときどきフォーカシング・サンガで何かテーマを決めて語り合ってみるのもおもしろいでしょうね。フォーカシングは悩みを解決するだけのものではなく、自分や自分の生活している社会が未来に向けてより良く変化していくのにとても役立つものなのです。

詩とフォーカシング

 NHKラジオの第2放送でカルチャーラジオというのをやっていて、毎週木曜日は「文学の世界」です。この1~3月は批評家・随筆家の若松英輔さんが「詩と出会う 詩と生きる」というテーマでお話されていますが、今日はその第1回目をちょっと引用させていただきます。ちなみにインターネットのストリーミング放送で聞くことができます。
「私たちは心の中に詩の種をとても豊かに持っている。誰かに与えられるものではなくて自分の中に持っている。詩は技術にとらわれると上手く書けない。自分の心の中にある美しい想い、だけど容易に言葉にならないもの、そういうのが詩なのだ。」
 
「詩が生まれるのは意識のもう一歩奥から。詩とは「情(こころ)のコトバ」。漢字の「言葉」ではなく「コトバ」。まだ言葉になる前のもの。うごめく意味そのもの。そこから詩が生まれる」
 
「何かを知る、何かについて知るという2つの「知る」がある。学校で習ったのは「何かについて知る」ということ。「何かを知る」ということはもっと別のこと。そのことそのもの知るということ。何かについて知るだけでは、ものごとの核心の回りをグルグル回るだけ。何かを知るとは、本当に核となるものと出会うこと。熱を帯びて、我々に訴えかけてくるものに直接触れること」
 
「詩の言葉は量的世界と質的世界の違いを教えてくれる。詩の世界は質的世界。誰か一人に伝わればいい。量的世界とは、例えばとにかくたくさん情報を持っていることを善しとするような世界。詩の中のただひとつの言葉に出会うだけでもいい。それで詩と出会ったことになる。」
 
「詩というのは理解することではなく味わうこと。わからなくても美しいと思うことがある。理解するのではなく味わう。うまく書こうとしないこと。自分の思いをそのままに書く。それはとても難しいこと。上手い、下手の世界から自分を自由にする。人のものを読むときにも上手い下手にこだわらないようにする。目の前のものをそのまま受け取ってみよう。」
 
「すぐれた詩というのは自分に宛てられた手紙のようなもの。読めばそれに対して返事を書きたくなる。その返事もまた詩である」
 
「人はなぜ詩を書かねばならないのか。詩を書かずにいられない衝動がある。本能に近いもの。多くの現代人が場合眠らせてしまっている本能。なぜなら量的世界にいるから。詩的世界は質的世界。たった一人の人のためのもの。」
 
「日本の詩の歴史は挽歌。亡くなった人へおくる言葉。だからこそ和歌は廃れることなく今日まで続いている」
 
 本当に、私がフォーカシング・サンガやこころの天気で実現したいと思っていることをそのまま語っていただいたようで、とても感激です。フォーカシングで出てくる言葉は全て詩なのだといって間違いないでしょう。
 
<イベント案内>
☀ フォーカシング・サンガ松江月例会 ☀
場 所: 松江市総合福祉センター 3F
日 時: 2月3日(土)13:30~16:45
定 員: 8名(残り若干名)
参加費: 2000円
次 回: 3月10日(土)13:30~16:45
 
☀ ヨーガ読書会 ☀
会 場: 城西公民館(島根県松江市
日 程: 2月18日(日)11:00~12:00
次 回: 3月4日(日)11:00~12:00
テキスト:『菜根譚講談社学術文庫 1300円+税
参加費: 500円 (予約は不要です)
 
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一心塾だより 第15号
一心塾・心身教育研究所 土江正司

一心塾だより 第15号

詩とフォーカシング
 
寒中お見舞い申し上げます。マイナス4℃を体験しましたが、これが2℃になったらなんだかホッとしている自分がいて、ちょっと可笑しくなりました。
 
 NHKラジオの第2放送でカルチャーラジオというのをやっていて、毎週木曜日は「文学の世界」です。この1~3月は批評家・随筆家の若松英輔さんが「詩と出会う 詩と生きる」というテーマでお話されていますが、今日はその第1回目をちょっと引用させていただきます。ちなみにインターネットのストリーミング放送で聞くことができます。
 
「私たちは心の中に詩の種をとても豊かに持っている。誰かに与えられるものではなくて自分の中に持っている。詩は技術にとらわれると上手く書けない。自分の心の中にある美しい想い、だけど容易に言葉にならないもの、そういうのが詩なのだ。」
 
「詩が生まれるのは意識のもう一歩奥から。詩とは「情(こころ)のコトバ」。漢字の「言葉」ではなく「コトバ」。まだ言葉になる前のもの。うごめく意味そのもの。そこから詩が生まれる」
 
「何かを知る、何かについて知るという2つの「知る」がある。学校で習ったのは「何かについて知る」ということ。「何かを知る」ということはもっと別のこと。そのことそのもの知るということ。何かについて知るだけでは、ものごとの核心の回りをグルグル回るだけ。何かを知るとは、本当に核となるものと出会うこと。熱を帯びて、我々に訴えかけてくるものに直接触れること」
 
「詩の言葉は量的世界と質的世界の違いを教えてくれる。詩の世界は質的世界。誰か一人に伝わればいい。量的世界とは、例えばとにかくたくさん情報を持っていることを善しとするような世界。詩の中のただひとつの言葉に出会うだけでもいい。それで詩と出会ったことになる。」
 
「詩というのは理解することではなく味わうこと。わからなくても美しいと思うことがある。理解するのではなく味わう。うまく書こうとしないこと。自分の思いをそのままに書く。それはとても難しいこと。上手い、下手の世界から自分を自由にする。人のものを読むときにも上手い下手にこだわらないようにする。目の前のものをそのまま受け取ってみよう。」
 
「すぐれた詩というのは自分に宛てられた手紙のようなもの。読めばそれに対して返事を書きたくなる。その返事もまた詩である」
 
「人はなぜ詩を書かねばならないのか。詩を書かずにいられない衝動がある。本能に近いもの。多くの現代人が場合眠らせてしまっている本能。なぜなら量的世界にいるから。詩的世界は質的世界。たった一人の人のためのもの。
 
「日本の詩の歴史は挽歌。亡くなった人へおくる言葉。だからこそ和歌は廃れることなく今日まで続いている」
 
 本当に、私がフォーカシング・サンガやこころの天気で実現したいと思っていることをそのまま語っていただいたようで、とても感激です。フォーカシングで出てくる言葉は全て詩なのだといって間違いないでしょう。

一心塾だより 第14号

体験的傾聴

 
 フォーカシングは、私たちが自らの感覚を羅針盤として物事に対処したり、生き方を決めることができるようになるための、この上なく重要な技術と知恵です。その習得に際して確実に掴み、意識化できるようにしなければならないのが、「今この瞬間のリアルな体験」です。
 例えば、誰かに思いがけず親切にしてもらったときに、その人はおそらく「心のぬくもり」をリアル体験していることでしょう。フォーカシングを習得しようとする人は、自らのリアル体験に常に気づいている(マインドフルネス!)よう心がけるべきですし、また誰かのリアル体験を自分のことのように感じられるよう練習する必要があります。
 その練習とは、「伝え返し」であり「まとめの伝え返し」であり、どんなリアル体験であるか明らかにするための「質問」です。また自分のリアル体験を感想として伝える(「感想のギフト」)ことで、相手のリアル体験が揺さぶられ、よりはっきりと感じ取れるリアル体験となることもあります。そのような技を使いながら、相手のリアル体験を理解していくことが「体験的傾聴」です。リアル体験は自分で気づくけで少し変化しますが、他者に理解されると大きく変化(シフト)していきます。それがフォーカシングの醍醐味と言えるでしょう。とくにフォーカシング・サンガでは参加者全員が一人の語り手のことを理解していきますので、より変化が大きいのです。
 相手のリアル体験を自分のことのように感じられるのは、実は生き物としての私たちに備わった直感があるからです。ですから実は言葉を介さなくても瞬間的に理解可能なのです。しかしその正確さを高め、また相手のシフトを促すために伝え返しや質問は重要です。そのような練習をすることで、私たちの直感は更に鍛えられていきます。
 直感が鍛えられるとは、自分の中にヘドロのように溜まり、こびりついている価値観、概念、思い込み、自信のなさ、傲慢さ、居座っている感情などがきれいに掃除されるということです。実はそのことがフォーカシングを練習する最も大事な意味なのかもしれません。

一心塾だより 第13号

ジェンドリンの思い出


 フォーカシングの創始者ユージン・ジェンドリンが今年5月1日に亡くなって、日本フォーカシング協会(http://www.focusing.jp/)のニュースレターには前、今と追悼の文章が数篇ずつ寄せられています。ジェンドリンから掛けられた印象深い言葉や行動の紹介が、ジェンドリンという人を忍ばせてくれます。
 私は二度、ニューヨークでご本人に出会いました。たまたま食堂のテーブルが近かったので、思い切って「フェルトセンスには深いものと浅いものがあるのか」と当時疑問に思っていたことをぶつけてみました。答えは「No」でした。そこからジェンドリンの長い解説が始まり、聴衆が増えてきて、通訳のホンさんが加勢してくれましたが、英語もついていけなくなり、もうパニックでした。でもジェンドリンの真摯な物腰が今でも蘇ります。数年後、廊下ですれ違ったとき、ドキドキして「Hi, I'm Shoji」と言ったら、「I know」とけ鋭い眼光で返してくれて、それけで「遠くからやってきて良かったあ」と思えてしまいました。
 それからしばらくして、日本からメールを送りました。「あなたの哲学は仏教と似通っているのが、あなたがあまり仏教に言及していないのはなぜか」というような文面でした。いぶんしてから返事が来たように思います。「違う哲学を背景に持つものは単純に比較できない」ということでした。最近になって、彼の哲学的著作を紐解いてみたら、自分の質問が彼の哲学を理解していないところから来る不躾なものったなあと、とても反省しているところです。
 でも不躾でも何でも勇気を持って交流でき、ジェンドリンの反応に接したことは私の大きな宝のようでもあります。ジェンドリンは、私の父と同い年であり、父もまた今年7月に亡くなりました。記憶に残るのは、ちょっとしたあの笑顔や表情、物腰、短い言葉なの今思います。それらが今やさしく自分を律してくれています、あのようでありたいと。
日本フォーカシング協会(http://www.focusing.jp/

一心塾だより 第12号

 いつもフォーカシング・サンガに参加してくさる方が、セッションの中で「自分は波を受ける岸になる」と表現されました。私は感想として、「岸は、陸と海の境界、つまりエッジ。そこには貝とかカニとか、いろんな生物が生まれ育つところ。とても豊かなところ」と述べたところ、とても喜んでいたきました。

 フォーカシング的にはエッジは概念(陸)と非概念(海)の境界にあります。あるいは町と山の境界にある「里山と言ってもいいかもしれません。そこは新鮮な言葉や意味が今まさに生まれ出ようとする場所です。フォーカシングというのは案外、岸辺や里山に親しむのに似たことなのかもしれません。一人で浸るも良し、仲間と楽しむも良しです。
 里山と言えば、先日、島根県雲南市加茂町にある「山本空外記念館」に行ってみました。心安らぐ里山の中にあります。空外上人は旧制広島文理大学(広島大学)で西洋哲学を教えていたのですが、原爆に遭ったのがきっかけで浄土宗僧侶となり、縁あって加茂町の寺にて念仏三昧、書道三昧の生活を送られるようになったのです。その書は、「自然の命が躍動している心の書」と高く評価され、良寛に並び称せられるほどです。
 空外上人は「無二的人間」ということを常々仰せられました。相手や対象を生かし切ることで、二者関係から無二の状態に至ることの大事さを説かれたのです。そしてその書に接すると、なるほど無二の境地が迫力を伴って伝わってきます。フォーカシングに通じるところがあるように思います。記念館は10月のみオープンです。