from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

「悟り」とフォーカシング

  秋本番ですね。リンゴ、栗、柿、ピオーネ、色とりどりの果物が店先に並んでいるのを見るだけで幸せを感じます。僕は食べ頃のキウイを二つ買い物かごに入れ、明日の朝食の満足感を想像します。

 「僕はキウイが好きだ」と思うとき、僕はキウイが好きな「自分」という存在を少し自覚します。「自分」という一つのまとまりの境界線は結構あいまいなものです。レジでお母さんが子どもをきつく叱って、子どもがふてくされていると、僕はその子の気持ちを「自分のことのように」感じます。

 一体「自分」は何で構成されているのでしょうか。まぎれもなく言えるのは、純粋な観察主体あるいは「覚知機能」としての「自」がその中心にあるということです。そしてその周りに、欲求、好み、意思、気持ち、感覚、肉体などがあります。これらは「自分」を「自」と「分」に分けた「分」の方です。マインドフルネスでもフォーカシングでも共通して、「自」によって「分」に気づくことが促されます。気づかないうちは、自分が欲求や気持ちという“フィルター”を通して、世の中を歪めて見ていることに気づくことができません。

 覚知機能である「自」によって「分」を観察していると、だんだん「分」が対象化され概念として理解できるようになります。例えば「自分の中に自分を嫌っているところがあって、それがよく自分を落ち込ませている」などと気づき、概念化しているのです。マインドフルネスでは気づきは促しても、概念化まで進んでしまうことは避けます。概念化にはどうしても「分」のフィルターがかかるからです。 例えば呼吸を観察するなど、マインドフルネスでおなじみの方法なら気づきで止めて概念化しないでおくことは可能でしょうが、気持ちの観察となるととても難しいです。

 その点、こころの天気の描画はかろうじて概念化の手前にとどまる方法です。「晴れ」とか「雷」とか、一言で言ってしまう場合は概念化されていますが、多くの場合、描画された気持ちは観察されたままの微妙なものを保っています。概念化前の微妙なところにとどまる方法がフォーカシングなのです。それによって私たちは「いま体験していること(体験過程)」に少しの間とどまれるようになりました。

 ここで考えなければならないのは、体験過程とは自分の「分」なのかどうかということです。体験過程は「分」ではありません。体験過程はキウイと「僕」の間にあります。体験過程は、叱られてふてくされている少年と「僕」の間にあり、複雑な意味を含み、どんなふうにでも概念化されて行く可能性を含んでいます。私たちは体験過程にとどまることによって初めて「分」のフィルターに影響されず、また早急な概念化に邪魔されず、ものごとをありのままに体験することができます。その同じやり方を「分」にも適用することで、初めて私たちは「分」を「自分」から分離して体験できます。

 道元禅師は『正法眼蔵』で「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己を忘るるなり」と述べます。「分」を「自分」から分離して体験することが、「自己を習う」ということでしょう。体験過程に“とどまる”とき、私たちは気づきつつ同時に体験しています。この状態が実は仏教の最高境地である「般若」です。観察者と観察対象が一体化している状態です。これが「自己を忘れる」ということでしょう。ジェンドリンによって明らかにされた「体験過程」は、私たちを「悟り」に急速に近づけてくれます。そのためにはフォーカシングとマインドフルネスの両方の実習が必要です。  

一心塾だより 第11号

「悟り」とフォーカシング

 

  秋本番ですね。リンゴ、栗、柿、ピオーネ、色とりどりの果物が店先に並んでいるのを見るだけで幸せを感じます。僕は食べ頃のキウイを二つ買い物かごに入れ、明日の朝食の満足感を想像します。

 「僕はキウイが好きだ」と思うとき、僕はキウイが好きな「自分」という存在を少し自覚します。「自分」という一つのまとまりの境界線は結構あいまいなものです。レジでお母さんが子どもをきつく叱って、子どもがふてくされていると、僕はその子の気持ちを「自分のことのように」感じます。

 一体「自分」は何で構成されているのでしょうか。まぎれもなく言えるのは、純粋な観察主体あるいは「覚知機能」としての「自」がその中心にあるということです。そしてその周りに、欲求、好み、意思、気持ち、感覚、肉体などがあります。これらは「自分」を「自」と「分」に分けた「分」の方です。マインドフルネスでもフォーカシングでも共通して、「自」によって「分」に気づくことが促されます。気づかないうちは、自分が欲求や気持ちという“フィルター”を通して、世の中を歪めて見ていることに気づくことができません。

 覚知機能である「自」によって「分」を観察していると、だんだん「分」が対象化され概念として理解できるようになります。例えば「自分の中に自分を嫌っているところがあって、それがよく自分を落ち込ませている」などと気づき、概念化しているのです。マインドフルネスでは気づきは促しても、概念化まで進んでしまうことは避けます。概念化にはどうしても「分」のフィルターがかかるからです。 例えば呼吸を観察するなど、マインドフルネスでおなじみの方法なら気づきで止めて概念化しないでおくことは可能でしょうが、気持ちの観察となるととても難しいです。

 その点、こころの天気の描画はかろうじて概念化の手前にとどまる方法です。「晴れ」とか「雷」とか、一言で言ってしまう場合は概念化されていますが、多くの場合、描画された気持ちは観察されたままの微妙なものを保っています。概念化前の微妙なところにとどまる方法がフォーカシングなのです。それによって私たちは「いま体験していること(体験過程)」に少しの間とどまれるようになりました。

 ここで考えなければならないのは、体験過程とは自分の「分」なのかどうかということです。体験過程は「分」ではありません。体験過程はキウイと「僕」の間にあります。体験過程は、叱られてふてくされている少年と「僕」の間にあり、複雑な意味を含み、どんなふうにでも概念化されて行く可能性を含んでいます。私たちは体験過程にとどまることによって初めて「分」のフィルターに影響されず、また早急な概念化に邪魔されず、ものごとをありのままに体験することができます。その同じやり方を「分」にも適用することで、初めて私たちは「分」を「自分」から分離して体験できます。

 道元禅師は『正法眼蔵』で「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己を忘るるなり」と述べます。「分」を「自分」から分離して体験することが、「自己を習う」ということでしょう。体験過程に“とどまる”とき、私たちは気づきつつ同時に体験しています。この状態が実は仏教の最高境地である「般若」です。観察者と観察対象が一体化している状態です。これが「自己を忘れる」ということでしょう。ジェンドリンによって明らかにされた「体験過程」は、私たちを「悟り」に急速に近づけてくれます。そのためにはフォーカシングとマインドフルネスの両方の実習が必要です。  

一心塾だより 第10号

 8月5日のフォーカシング・サンガではペアになって10分ずつ、フェルトセンスを掴んでそれと対話する練習を取り入れてみました。参加者が増えてきたこともあって、しっかり体験し、スキルアップしていたくために今後も試行錯誤しつつ定着させていきたいと思っています。
 
 「こころの天気」描画用紙の新しいバージョンを作りました。こころの天気予報を同時に描けるように工夫してあります。以下よりウンロードできますので、どうぞお試しくさい。https://www.sinsined.com/tenki 
 
 最近「アンガーマネジメント(怒りの管理)ということが言われるようになってきました。怒るべきところではきちんと怒るけど、無駄には怒らないということのようです。学校での研修にも取り入れています。本やネットを参考に要素を5つにまとめてみました。
 
① 怒り始めて6秒間は怒りを客観視することで、最悪の事態は避けられる。
② あなたを怒らせている相手がどうしてくれることをあなたは望んでいるのか気づき、冷静にそれを伝える。相手が怒っている場合は、その人があなたにどうして欲しいと望んでいるか推察してみる。
③ 過去の経験や家族など、変えようのないものに腹を立てないようにする。
④ 「こうあるべき」という自分の信念が尊重されなかったとき人は怒る。
⑤ 信念がわがままなものでないなら怒っても良い
 
 ①~③はわかりやすいと思うのですが、私が注目するのは④です。何かに腹が立ったときは、自分の中の信念に気づくチャンスなのです。例えば子どもがゲームばかりしていることに腹が立ったとすると、あなたは「ゲームは1時間以内で終わるべき」とか「1時間以内で終わるという約束を守るべきなどの信念を持っているはずです。「ぴったり言葉」を探していけば、自覚していなかった信念にきっと行き当たるでしょう。そしてその信念が、わがままなものでなければ怒りを我慢する必要はないですし、相手に伝えることも容易です。前者の信念は、子どもからすれば親のわがままに感じられて、反発を買うかもしれませんね。
 
 誰の心にも信念はありますが、それがもとで怒りけでなく、落ち込みや悲しみなどの感情が喚起されます。おそらく無自覚な信念はフェルトセンスとセットになっていると考えられます。例えば「約束は守るべきという信念を無自覚に持っている人が、何かの状況で約束を守れそうにない場合、からのどこかにフェルトセンスを感じることでしょう。そこでフォーカシングすることで無自覚であった信念が自覚され、今後の行動の方向性が見えることでしょう。また約束を守らない人に対する怒りをフォーカシングするとき、相手の事情に思い至ったり、約束に因われすぎていた自分に気づいたりするかもしれません。無自覚であった信念が自覚化されるとき、その信念は少し洗練されていきます。つまり、わがままでない方向へ向かいます。それによって平穏な心と調和的な人間関係が築かれていくことでしょう。

一心塾だより 第9号

気持ちをつぶやこう

 誰でも家族や知人の中に、こちらの気持ちによく気づいてくれる人、気づいてくれにくい人をそれぞれ何人かずつは思い浮かべることができるでしょう。日本には察する力を尊ぶ文化があるので、気持ちによく気づける人は良い人に見られ、そうでない人には厳しい目線が送られることになります。逆にそんな文化の中で育った私たちは自分の気持ちを意識化することも表現することも得意ではありません。
 他者の気持ちに気づきにくい人は、目をつむって人間関係という森を歩くような感覚を常に感じているのかもしれません。ある人は木にぶつかることに怯え、ある人は気にせず木をなぎ倒しながら進むことでしょう。前者は人を怖がり、後者は人を怖がらせます。そうした気持ちに気づきにくい人たちのために、すべての人は自分の気持ちを意識化し、表現する努力をしていく必要があるのではないかと、私は考えるようになりました。見えにくい人のために森の木々が自ら「ここにこういう気持ちがここにありますよ」と声を発するのです。そうすればぶつかられることも、怖がられることも減るのではないでしょうか。
 でもこれけフォーカシングを練習してきた私自身、日常会話で気持ちを伝えることは容易ではありません。でもフォーカサーの新しい訓練としてこれは努力していこうと思います。ちょっとアサーションレーニング的な感じでもあります。自分の気持ちを表現するけでなく、会話の中に出てきた人やドラマの登場人物の気持を想像して「あの人は・・・な気持ちなんろうね」なんていう会話も素敵と思います。
 気持ちの表現が難しいのは文化以外にも理由があると思います。気持ちが感情まで強まれば、「嬉しい」「腹立つ」と言えるでしょうが、そこまでの強さがなければ「びみょー」としか咄嗟には言えないでしょう。そこをフォーカサーなら「なんかモヤモヤする感じ」とか言えそうです。しかし私などもそうですが、会話の中では頭が先に働いて「こうしたらいいじゃん」と解決策を言ってしまいます。そこからは議論の世界、左脳の領域に入っていきます。何か言う前に感じを確認する癖をつける必要がありそうです。

自己肯定感について

 対人恐怖というのは日本人に特有の症状であることをご存知でしょうか。また最近の国の調査によると、「自分のことが好き」と答える日本の若者は45%、他国は約80%と著しく日本の若者が低い結果になっています。この二つのことは恐らく関連があるのだと思います。一つの要因として考えられるのは「お・も・て・な・しで有名になった日本人の察する能力の高さです。

 もし自分のことが嫌いであれば「人は自分ことを嫌っているだろう」と勝手に察し、ますます自分を嫌いになるという悪循環に陥るのではないでしょうか。また自信なさそうにしていることが傍目に「いい人」に映るという日本的謙遜の美徳も「自分のことが好き」と胸を張って言えない文化を作り出しているのではないかと思います。ですから自分のことを好きと答える人が少ないからといって、それを単純に問題視できない気もします。
 自分のことを好きになるにはどうしたら良いか問うた場合、出て来る答えの多くは「得意な分野を伸ばして周囲に認められる」です。しかし「何かができる」ことと自己肯定感は別物と考えたほうがよいと私は思います。いろいろできる力や技術があっても自分を嫌いという人が多く存在するからです。
 私はこう考えます。自分のことを好きかどうかは、何かの理由によるものではなくて、理由も条件もなくただ好きであるということが本質なのだと。その本質の上にさらに何かができるとか、容姿がいいとかそういった条件が加わるとさらに肯定感が高まるとは思いますが、それらは本質とは言えません。ではどうしたら無条件に自分を好きでいられるのか。それはフォーカシングが鍵を握ると思います。「自分」と思ったときにどんな感じ(フェルトセンス)があるでしょうか。もし受容し難い感じであるなら、そのフェルトセンスと適度な距離を取りながらいい付き合い方を模索します。「いい付き合い方をする」、それは対象が自分であれ他者であれ物であれ症状であれ、全てに通じる目指すべき方向性です。対象そのものとの付き合い方は難しくても、対象から醸し出されフェルトセンスとの付き合いはちょっとしたコツ(それが「フォーカシング」です)を掴めばそう難しいものではありません。そしてフェルトセンスと付き合えれば、実際の対象との付き合いもうまくいくようになるのです。
 多くの場合フォーカシングによって上手く付き合えるようになった対象は、好きとか嫌いという対象ではなくなり、あっても邪魔にならない、あるいは空気のような存在になっていきます。「自分」という対象も好きとか嫌いというより、空気のようであれば一番生きやすいのではないでしょうか。それは仏教で言う「無我」に通じることでしょう。

一心塾だより 第8号

自己肯定感について

 
 対人恐怖というのは日本人に特有の症状であることをご存知でしょうか。また最近の国の調査によると、「自分のことが好き」と答える日本の若者は45%、他国は約80%と著しく日本の若者が低い結果になっています。この二つのことは恐らく関連があるのと思います。一つの要因として考えられるのは「お・も・て・な・しで有名になった日本人の察する能力の高さです。
 もし自分のことが嫌いであれば「人は自分ことを嫌っているろう」と勝手に察し、ますます自分を嫌いになるという悪循環に陥るのではないでしょうか。また自信なさそうにしていることが傍目に「いい人」に映るという日本的謙遜の美徳も「自分のことが好き」と胸を張って言えない文化を作り出しているのではないかと思います。ですから自分のことを好きと答える人が少ないからといって、それを単純に問題視できない気もします。
 自分のことを好きになるにはどうしたら良いか問うた場合、出て来る答えの多くは「得意な分野を伸ばして周囲に認められる」です。しかし「何かができる」ことと自己肯定感は別物と考えたほうがよいと私は思います。いろいろできる力や技術があっても自分を嫌いという人が多く存在するからです。
 私はこう考えます。自分のことを好きかどうかは、何かの理由によるものではなくて、理由も条件もなくた好きであるということが本質なのと。その本質の上にさらに何かができるとか、容姿がいいとかそういった条件が加わるとさらに肯定感が高まるとは思いますが、それらは本質とは言えません。ではどうしたら無条件に自分を好きでいられるのか。それはフォーカシングが鍵を握ると思います。「自分」と思ったときにどんな感じ(フェルトセンス)があるでしょうか。もし受容し難い感じであるなら、そのフェルトセンスと適度な距離を取りながらいい付き合い方を模索します。「いい付き合い方をする」、それは対象が自分であれ他者であれ物であれ症状であれ、全てに通じる目指すべき方向性です。対象そのものとの付き合い方は難しくても、対象から醸し出されるフェルトセンスとの付き合いはちょっとしたコツ(それが「フォーカシング」です)を掴めばそう難しいものではありません。そしてフェルトセンスと付き合えれば、実際の対象との付き合いもうまくいくようになるのです。
 多くの場合フォーカシングによって上手く付き合えるようになった対象は、好きとか嫌いという対象ではなくなり、あっても邪魔にならない、あるいは空気のような存在になっていきます。「自分」という対象も好きとか嫌いというより、空気のようであれば一番生きやすいのではないでしょうか。それは仏教で言う「無我」に通じることでしょう。

無心

 瞑想のときにでてくる様々な想念は、マインドフルネスを保つには邪魔になるけど、無視するにも忍びないという思いがあって、大変難しい問題だと感じてきました。しかし座禅や瞑想の専門家がこれについて言及しているのを滅多に目にしません。つまり想念は「雑念」または「妄念」であって、省みるに値しないという立場の先生方が多いわけです。哲学者の永井均さんも瞑想を実践されていますが、曹洞宗の藤田一照さんらとの対談本『仏教3.0を哲学する』で「私は個々の雲をいちいち観察することにも意義はある、と思う(略)自分はどんな映画を見るようにできているのかを観察し、自分の様々な偶有的で付随的な属性を知ることができるからである」(p275)と述べています。ちなみ「雲」も「映画」もここでは想念のことを喩えて言っています。また昨年、松江で講演とワークショップをしていただいたプラユキ・ナラテボーさんは著書『自由に生きる』の第4章「たかが言葉、されど言葉」でこの問題を語っています。私の知る限りこのお二人だけが瞑想中の想念の重要性について語っています。
 私はフォーカシングの影響もあって想念を大事にしてきましたが、やはり想念を一度はきっちりクリアする必要があるという考えに辿り着きました。何か想念が浮かんだら「無心、無心」と3~5回程度心のなかで唱えることで”無”の状態を作ります。それは10秒程度しか持続しませんが、想念が浮かぶたびにこれを繰り返します。しかし「無心」を唱え続けるのは良くありません。「無心」と考えるのも一つの想念だからです。
 そのうちにただの雑念と、考えるに値する大事な想念の区別が付くようになりますので、雑念は捨て、大事な想念については納得行くまで(つまりフォーカシング的にからだがOKを出すまで)考えます。浮かぶのは思考だけではなく、イメージの場合もあります。イメージもまたどうでもよい雑イメージと重要なイメージがあります。重要なイメージについてはやはりフォーカシング的にイメージの変化を追います。思考にしろ、イメージにしろ終わればまた「無心、無心、」と心のなかで唱え、“無”を味わいます。
 ”無”の状態にあるとき、呼吸やからだの感じが感覚器官になだれ込みます。からだの内側に光を感じることもあります。部屋のエアコンを止めたら急に時計の音や外の鳥の鳴き声が聞こえて来たという体験に似ています。“無”ですから、呼吸やからだの感じに"注意を向けようという”というような努力もしていません。このとき仏教で非常に重視している「観察者と観察対象がひとつになること」が実現します。これを「無分別智」または「般若」といいます。これが本来のマインドフルネスです。
 「無心、無心、」と心の中で唱えるのは、何も瞑想中だけのことではありません。ヨーガをしながら、歩きながら、食べながらなど、どんなときでも実行可能です。ヨーガのときはやはり、今行っているアーサナで刺激される体の部位の感覚が自然に流れ込んで来ますので、そこに自然に意識が向けられることで筋肉が緩むのもスピードアップします。そして食べているときは食物の味わいがしっかり感じられるようになります。
 無心の練習はそう難しいことではありません。また無心を練習することで、自己否定的な考え(フォーカシングでは「批評家」といいます)に悩まされている方も次第にそれをコントロールできるようになるでしょう。