from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

当たること、当たられること

 家族や友だちにグチられたり、感情的に当たられたりすることは良くあると思います。あるいは、あなたがそのようにしているご本人かもしれませんね。

   昔、私はある友人からよく当たられることがありました。私が担当している役割をマジメにやっていないとか、どうせどうでもいいと思ってやっているんだろうとか、そんな言い方です。「そんなことない、ちゃんとやっているし、どうでもいいなんて思っていない」と反論して、それ以上言い合いにならないよう席を離れるのですが、何日かするとまた同じような会話が繰り返されます。

   同じ会話が繰り返されるのは、相手がこちらとの会話に満足していないということです。何か大事なことを伝えきれていないし、こちらもその大事なところを理解できていないのです。彼は私の役割のことを言っていますが、本当は私との関係性について、言葉にならないモヤモヤを抱えているのではないかと感じていました。

   でもそのことを彼との間で話題に取り上げることはしませんでした。関係性を言葉で説明しようとすると、大変ややこしいことになり、溝を深めることのほうが多いように思います。その代わりに、私の役割に関して、実行する前に彼の考えを聞いてみることにしました。彼は自分の考えを述べましたが、それは私の今までのやり方と大きく変わるものではありませんでした。しかし、それ以降彼は私に当たらなくなりました。

 彼は、もっと自分を尊重して欲しいという気持ちを持っていたのだと思います。でもそういうことは、なかなか言えないものです。言えば「お願いする」立場になってしまいますから。あくまでも私の方が察して自発的に彼を尊重するのでなければ、彼の気持ち完全には満たされないのです。これが甘えの一つの形です。言えば不利になるから、言わずに察せられるのを待つということです。そしてそれは頭で計算して行われることではなく、気持ちの中で何となく選択してしまうので、無意識的になりがちです。

 皆さんは疑問に思うかもしれません。察する分には相手は満足するかもしれないけれど、自分はいつも気を使わなくてはならないではないかと。それは面倒だし、損なことだと。

 ここはちょっと常識をひっくり返して考えなければなりません。関係改善のために「察する」という先手を打てる人が、信頼を得て大きな得をすると考えてはいかがでしょうか。

 グチる人・当たる人は、相手に対し「わかってよ、察してよ、受けとめてよ」という気持ちに自分で気づくこと無く、ただ甘えています。そして出てくる言葉は攻撃、批判です。そんな言葉にもう傷つく必要はありません。

 また、もしあなたがグチる人・当たる人であるなら、ぜひ自分の甘えに気づいてください。そのような甘え方をしても、期待に応えて察してくれる人はごく僅かであり、むしろマイナスの結果にしかならないことは、すでに十分知っていることではないでしょうか。