from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

批評家 <一心塾だより 第37号>

 フォーカシングはうまくできない、自分には向いていないと思っている人は、「批評家」に悩まされている場合が多いと思います。

 批評家とは、常に自分の頭の中に存在して、自分を批判する声です。「どうせお前にはできっこない」、「なんてダメな人間なんだ」、「何をやってもダメなんだから」、「あんなことする(言う)んじゃなかった、どうせいいようには思われないんだから」・・・。

 おそらく幼い頃に近しい人から言われていた言葉や態度が脳に焼き付いて、それ以来今日まで、自らの行動規範になっているのでしょう。ちなみにフロイトはこれを「超自我」と呼びました。自らの内側に批評家が住んでいると、生きづらいものです。しかし幼い頃からずっと一緒なので、距離が近すぎて、批評家がいない世界というものを想像することは難しいと思います。フォーカシングの最中でも、頭のどこかで「こんな事やっても無駄だ」とか言ってきて、だんだん思考優位になってしまうこともあるでしょう。

 批評家に対しては毅然とした態度を取る必要があります。「少し黙っていなさい」、「あなたの言うことは私の役には立っていません」。そしてはっきり距離を取るようにしてください。ただ、今までもの事に慎重でいられたのは批評家のお陰もあるかもしれませんから、こんなふうに言っても良いでしょう。「今までありがとう。あなたの居場所は、あの隅っこ辺りに確保しておきます。必要があるときには声かけるからね。それ以外のときはおとなしくしといてね」

 批評家は大きな影響力を発揮して、私たちの主体性を脅かします。私たちの本当の主体性はフェルトセンス、つまりからだの実感の方にあることを、フォーカシングに親しむに連れ、信じるられるようになります。そうなれば、批評家を静かにさせることができます。

 マインドフルネスの態度も重要です。日常においてふと批評家が思考に侵入してきたとき、素早くそれに気づき、「やあ、批評家さんいらっしゃい。来てくれてありがとう。じゃあさようなら」と丁寧に帰してあげます。これをしばらく続けることでも、徐々に批評家の来訪は遠のいていくことでしょう。

四つの聖なる真理 (一心塾だより第36号)

明けましておめでとうございます。今年も一心塾だよりをよろしくお願い申し上げます。

 
四つの聖なる真理
 
 年末からディビッド・ブレイジャー氏の『フィーリング・ブッダ(藤田一照訳)を読んでいます。仏陀が最初に説法した四聖諦(ししょうたい)について、従来の経典解釈に囚われることなく、臨床心理学的視点から解き明かされていて、非常に説得力があります。そしてその内容は、フォーカシングと驚くほどの共通点があります。
 四聖諦は文字通り4つの聖なる真理です。その第一は苦聖諦。よく言われる生老病死や、離別の苦しみ、嫌なものと出会う苦しみなどにとどまらず、苦とは、私たちにやってくる刺激の全てです。前回の一心塾だよりの五蘊の説明では「受」に当たります。仏陀はこれを敢えて「聖なる真理」と見ました。苦(受)があるから悟りがあるのです。フォーカシングに置き換えてみれば、苦とはフェルトセンスです。フェルトセンスがあるから私たちは環境に対応していくことができます。苦こそが聖諦の第一であると、繰り返し自分に染み込ませていくことで、仏陀の思いに私たちは近づくことができるはずです。
 苦に対して私たちは必ず反応します。それが第二の聖なる真理「苦集聖諦」です。嫌なことがあって、苦を体験すると、心の中で自分を責めたり、相手や社会を責めるという反応を私たちはしていますし、時には言葉や行動で示すこともあります。五蘊の「想」に当たります。そして「想」を野放しにすると、「行」→「識」と発展して、いよいよ苦が苦悩として感じられるようになってくるのです。
 苦に対するこうした反応も、仏陀は「聖なる真理」と見ます。それはとても人間的なことだからではないでしょうか。愚かで、過ちばかり犯すのが私たち人間ですが、そいういうところもひっくるめて聖なる存在であると見る。それが仏陀の信念なのだと思います。禅で「煩悩即菩提」(煩悩=悟り)といいますが、第二聖諦をよく表した言葉だと思います。そして本当の慈悲と、本当のポジティブ思考がここにあります。
 第三は「苦滅聖諦」です。不思議なことに、愚かで過ちばかりで情けない私たちを「聖なる存在」と見るときに、変化が起こってきます。大きく捉えるときに、中で起こっている反応は制御されていくものなのです。
 「滅」という言い方は、サンスクリット語の「ニローダ」から来ていますが、従来は「止滅」と訳され、これが仏教ともヨーガにも大きな誤解をもたらす原因となっています。つまり、苦も、苦に対する反応も、すっかり無くなってしまうのが仏教やヨーガの目指すところ、と解釈されてきたのです。それはあり得ないことです。あり得ないことを目指して、多くの修行者が無駄に苦しんできたのです。ブレイジャー氏は「ニローダ」を、壁で囲んで中の反応を制御すること、と解釈することで、仏陀の真意を掘り起こすことに成功しました。
 そして、カウンセリングやフォーカシングはまさに苦滅聖諦です。リスナーが居ることが、反応を大きく捉え囲むことに相当します。一人で行うなら、座禅のような不動の姿勢を取ることが極めて重要です。この姿勢が、囲みに相当するからです。ヨーガによって、インナーマッスルを鍛え、正しい姿勢が取れるように練習しましょう。
 第四は「苦滅道聖諦」です。いわゆる八正道です。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。これは読んで字の如し。正命とは無駄に生き物を殺さないこと、正念とはマインドフルネスのこと、正定とは正しい姿勢で座ることです。八正道は知る人も多いですが、第一、第二、第三聖諦を知らなければ、形だけのものになってしまいます。

 

雑念を活かす瞑想 一心塾だより 第35号

 雑念は、悪者扱いされることが多いですが、自然に出て来るものに善悪の価値付けなどするから、「集中できない!」などと、イライラの原因になってしまいます。「よく出てきてくれました」と、大事に受け止めてあげるのが「雑念を活かす瞑想」です。雑念は心の絶え間ない表現活動です。生きている証です。

 例えば、少し難しい本を読んでいるとします。気がつくと、目は字を追っているのに、頭の中では別のことを考えてしまい、ちっとも内容が頭に入らないということがよくあります。これも雑念です。集中を妨げます。気を取り直し、再び元のところから読み始めますが、やはりいつの間にか別世界へ。それで読むことをあきらめた本が一体何冊あるでしょうか。

 「この本を読まねば」と思うことが、雑念を敵にします。逆に、「雑念が出てくるための読書」と思えば、もっと読書を楽しめるかもしれません。「雑念が出てきたら、『出てきてくれてありがとう』と思って瞑想してください」と教示して瞑想してもらうと、「そう言われたら、なぜか雑念が出てきませんでした」という感想をもらうことがよくあります。案外、読書のときも 「雑念が出てくるための読書」と思えば、逆に意外と集中できるかもしれません。

 しかし、雑念を野放しにしてもいけません。野放しにしていると、雑念が概念として固まっていき、やがて概念が寄せ集まって自己意識が作り上げられていきます。自己意識が出来上がると、他者の持つ自己意識と相容れなくなり、無理解や喧嘩が起こります。これが仏教で五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言われる、苦しみの本質です。

 私たちは、幼いうちから気づかないうちに自己意識を作り上げています。それは社会の一員として、何者かとして生きるための手段でもあるのですが、苦しみの元でもあると知る必要があります。

 雑念を活かす瞑想では、雑念をありがたく受け止め、そこから考えをあまり展開させないようにして、概念を作らないようにします。そのために、頃合いを見て姿勢や呼吸へのマインドフルネスに戻るようにします。すると、次に出てくる雑念は、よりピッタリ言葉に近いものになる可能性があります。マインドフルネスによってからだとアクセスした結果、自然なフォーカシングが起こるのです。
 雑念を活かす瞑想を続けていると、自己意識が柔軟になっていくと思います。それは苦しみが減ることであり、また自己意識が緩んだぶん、他者のフェルトセンスを感じ取りやすくなることでしょう。

 雑念は絶え間ない表現活動であり、創造の源です。世俗を柔軟に、力強く、創造的に生きていくために、ぜひありがたく活用してください。。

 

フォーカサー・アズ・ティーチャー (一心塾だより33号)

 フォーカサー・アズ・ティーチャー(FAT)というのは、ペアでフォーカシングする際に、フォーカサー(語り手)がリスナーの聴き方に任せきりになるのではなく、「こんな風な聴き方をして欲しい」という要望を随時出しながら、自らのフォーカシングに没頭する方法です。
 フォーカシングを身につける上でとても強力な練習方法と言えますが、やろうとしても、日本人にとってはとりわけ難しく感じられかも知れません。自己表明するより、相手のやり方に委ねる姿勢を取るのが、日本人の文化として染み付いている甘えの構造なのですから。
 リスナーがよほど察する力があり、語り手を丸ごと包み込むほどの聴き方ができるのなら、語り手も甘えていられますし、その方が自己に没頭できます。しかしリスナーが初心者であれば、語り手が依存しているだけではフォーカシングは進みにくいのです。またFATによって語り手がリスナーに要望を出すことで、リスナーも成長できます。
 少し言い方を変えると、FATができるとは、甘えを自覚できるということです。
 「良い甘え」と「悪い甘え」があります。甘えの自覚があるかどうかがその分岐点です。良い甘えとは、自分が誰にどういう部分について甘えざるを得ないのかを自覚して、感謝しつつ、よりよく甘えられるようにわがままを言わせてもらうことです。FATはまさに良い甘えの練習です。悪い甘えは、誰に何を甘えているのか自覚がないので、感謝もできないし、きちんとした要求をすることもできません。うまく甘えが満たされないので、不満が多くなります。また悪い甘えの一種である「甘え下手」は「迷惑を掛けたくない」という思いに囚われ、孤独へと向かいがちです。不満は少ないのですが、幸福感は得にくいでしょう。
 ということで、フォーカシング・サンガではFATに力を入れていきたいと思います。そのため「フォーカサー心得」として、次の4枚のカードを用意します。①リスナーの聴き方に細かく注文する。②事情の説明は短く。③内的感覚の表現に自分で切り替える。③言いたいことの核心に自分で到達する。
 ①がFATの基本ですが、自立したフォーカサーであるために②③④の心がけも重要です。これによって、すでに活用している3つの「リスナー心得」の①「居るだけでいい」が、リアルな体験となってきます。

探索の楽しさ

「このレバーを押すと餌が出てくるんだ!」と気づいたときに、猿の頭からドーパミンという快楽ホルモンがドパっと出てくる、ということが実験で確かめられています。生活を快適にしたり、愉快さを感じられるものにしたりするのに、私たちがいろいろ探索行動をするのは、そこにワクワクする感覚があるからでしょう。もしドーパミンが出なかったら、ワクワク感もないので、別に今まで通りでいいじゃない、無駄な行動をしないほうがいいじゃない、という考えに落ち着いてしまうことでしょう。

 現代はあまりにも便利なので、あまり探索行動をする必要がなくなりました。ネットですぐに知りたいことがわかりますし、コンビニで美味しいものが簡単に手に入ります。ドーパミンが出にくい世の中だと思います。でもそれでは人生は味気なく、すぐに「何のために生きているんだろう」というような疑問が出てきて、「早くお迎えがこないかなあ」なんて思いに取り憑かれます。

 探索は見知らぬ土地やおいしい食べ物に限ったことではありません。そこは便利になったことを受け入れて、探索の先を、例えば芸術とか読書とか、哲学とか、何かの研究などに向ければよいのではないでしょうか。

 しかしそのためにはベースとなる知識や体験がないと、探索のしようがありません。だからちょっと努力して、少しでも心惹かれることについては入門書から始めて、何冊か本を読むようにします。また実際にその土地に行ってみるようにします。そこから探索は無限に広がっていきます。おそらくそれは、認知症予防にもつながるでしょうし、足腰を衰えさせないでいたいから毎日歩こうというような健康志向にもつながるでしょう。

「芯の強さ」とは?

先日ある方にお会いして、「とても芯の強い人だなあ」という印象を持ちました。苦労を重ねた経験もお持ちでしたが、楽観的でポジティブな考えの持ち主でもありました。

 その方とお会いした後、「芯の強さって何だろう?」と少し考えてみました。

 ヨーガのアーサナでは姿勢を支える筋肉を鍛えて柔軟にします。鍛えないと柔軟になりません。姿勢を支えているのは骨に近いところにある内筋(インナーマッスル)と呼ばれる筋肉です。これが弱いままだと、硬くなることで骨を支えようとするのです。硬いとアーサナのようなストレッチ系の体操が苦しくて避けようとしますから、ますます硬くなるという悪循環になります。

 日常生活の中で姿勢を乱さないようにしたり、なるべく立っている時間を増やすことで、少しずつ内筋が鍛えられ、アーサナが楽しくなってきます。身体的な面で「芯の強さ」というのは、このように内筋の強さ・柔軟さと言い換えられるのではないでしょうか。

 では心の方はどうでしょう。身体の芯が強ければ、心の芯も強くなると単純なことは言えません。しかし心と身体は構造がよく似ていると私は常々感じています。ですから心の芯が強い人とは、心の内筋が鍛えられて柔軟な人と言えるのではないかと考えてみました。

 どういうことでしょうか。心の内筋は「面倒くさい」とか「どうして自分がそれをやらなきゃならないの?」というようなマイナスの思いを持つことなく、さっと行動に移すことで鍛えられます。この心構えを持っていれば、自然と生活や仕事上の技術が培われていきます。そのように鍛えられた心の内筋は柔軟さを備えるようになります。それは人に対する「優しさ」です。細かい気配りができる人はやはり「心の芯の強い人」と言えるのではないでしょうか。

寝る前のお祈り

アメリカの小学生が学ぶ教科書』に、向こうの子どもが寝る前に唱える祈りの言葉が載っていました。

Now I Lay Me          「お休みの祈り」

Now I lay me down to sleep,  これからおやすみの床につきます

I pray the Lord my soul to keep. どうか、神さまわたしの魂をお守りください

If I should die before I wake,  もしも目覚める前に死んでしまったときには

I pray the Lord my soul to take. どうか、神さま魂はあなたのおそばに

 

 教科書に宗教的な言葉を入れるのは日本では許されないでしょうが、アメリカの子どもたちは17世紀からこの詩を覚えてきたのだそうです。

 この祈りの言葉を幼い頃から唱えることは、きっと自死予防につながってきたと私は思います。子どもは死のことを考えたりしないと考えるのは間違いだと思います。子どもには、もしかしたら大人より豊かに想像する力がありますから、死のことを想像することはあるでしょう。でもそれをお母さんに尋ねたら、「そんな事考えないで!」ときっと言われるでしょうね。

 そう言われたら、もう自分で考えるしかありません。なんの導きもないままに考えるのは、深い森に一人でさまよい込むような感覚かもしれません。そう考えると、冒頭の詩には深い知恵があります。「心配しなくても大丈夫だよ」と語りかけてくれます。精神の生命保険のようなものです。

 宗教と科学は対立するものではありません。いや、対立することがあるとしたらそれは宗教の悪しき部分です。太陽の周りを地球が回っているという観測的事実をカトリック教会は認めないということがかつてありました。今でも、女性は男性より劣っているから要職には就かせられないという、科学的事実に基づかないことを普通に信じている宗教があります。

 伝統が偏見を助長します。偏見を打破していくのが科学です。宗教は心の安定のために必要なものなのに、内に偏見を宿していては本末転倒です。宗教と科学は手を組んで互いに高め合うことができるし、そうあってほしいと願います。