ZOOMの時代到来 <一心塾だより 第39号>
大事な人を死に至らしめ、様々な生産活動をストップさせている新型コロナウイルスですが、この環境の変化は我々に新たな展開をもたらしています。
ジェンドリンは哲学的主著『プロセスモデル』において、カブトムシの足が一本折れたなら、新しい歩き方をすぐに身につけるという例を上げて、そのことを説明しています。今までのパターンが通用しなくなれば、我々のフェルトセンスは新しい環境に適応すべく我々を導いてくれているのです。ちなみに、「トイレットペーパーがなくなるらしい。それ!」と、スーパーに我々を走らせるのはフェルトセンスではありません。
東日本大震災のときには、世界中が再生可能エネルギーの開発に意識が向きました。せっかくの新たな展開だったのに、日本は電力会社の意向を尊重してか、その波に乗れませんでした。それでいて原発も再稼働できず、結果としてCO2を大量に発生する火力発電に頼り、世界の顰蹙を買っています。やっとこの4月から送電線の管理を電力会社から切り離すことになったので、少しは再生可能エネルギーが日の目を見るかもしれません。
すみません、脱線しました。
今の新たな環境変化は、ZOOMというテレビ会議システムの使用が飛躍的に広がっているということです。今まで何となく敬遠していたけど、利用せざるを得なくなって、利用してみたらなんか良かった、という生活の変化はよくあるのですが、ZOOMの広がりは本質的な変化を感じさせます。
ミネルバ大学という、今世界で一番人気のある大学は、授業をすべてテレビ会議システムを使って行っています。学生同士がパソコン画面を通して活発な議論をしているのです。必然的にキャンパスは必要なく、だから授業料がとても安いのです。他の大学も、きっとこの方法を取り入れていくことでしょう。
集まって話をする。それは我々の素晴らしい楽しみです。心の健康にも良いことです。ZOOMはその機会を広げる「どこでもドア」みたいなものですね。
批評家 <一心塾だより 第37号>
フォーカシングはうまくできない、自分には向いていないと思っている人は、「批評家」に悩まされている場合が多いと思います。
批評家とは、常に自分の頭の中に存在して、自分を批判する声です。「どうせお前にはできっこない」、「なんてダメな人間なんだ」、「何をやってもダメなんだから」、「あんなことする(言う)んじゃなかった、どうせいいようには思われないんだから」・・・。
おそらく幼い頃に近しい人から言われていた言葉や態度が脳に焼き付いて、それ以来今日まで、自らの行動規範になっているのでしょう。ちなみにフロイトはこれを「超自我」と呼びました。自らの内側に批評家が住んでいると、生きづらいものです。しかし幼い頃からずっと一緒なので、距離が近すぎて、批評家がいない世界というものを想像することは難しいと思います。フォーカシングの最中でも、頭のどこかで「こんな事やっても無駄だ」とか言ってきて、だんだん思考優位になってしまうこともあるでしょう。
批評家に対しては毅然とした態度を取る必要があります。「少し黙っていなさい」、「あなたの言うことは私の役には立っていません」。そしてはっきり距離を取るようにしてください。ただ、今までもの事に慎重でいられたのは批評家のお陰もあるかもしれませんから、こんなふうに言っても良いでしょう。「今までありがとう。あなたの居場所は、あの隅っこ辺りに確保しておきます。必要があるときには声かけるからね。それ以外のときはおとなしくしといてね」
批評家は大きな影響力を発揮して、私たちの主体性を脅かします。私たちの本当の主体性はフェルトセンス、つまりからだの実感の方にあることを、フォーカシングに親しむに連れ、信じるられるようになります。そうなれば、批評家を静かにさせることができます。
マインドフルネスの態度も重要です。日常においてふと批評家が思考に侵入してきたとき、素早くそれに気づき、「やあ、批評家さんいらっしゃい。来てくれてありがとう。じゃあさようなら」と丁寧に帰してあげます。これをしばらく続けることでも、徐々に批評家の来訪は遠のいていくことでしょう。
被害感情 <一心塾だより 第38号>
前回書きました「批評家」については、反響がいつも以上にあり、改めて批評家に悩まされている人は多いものだなと思いました。また、反響の中に「被害感情について知りたい」というコメントがありましたので、今日はそれについて考えてみたいと思います。
被害感情を持つと、相手への恨みや怒りで心が溢れそうになり、とても辛いものです。決して持ちたいわけではないですが、実際に被害を受けると持たざるを得ません。直接的に、または関係者や相応の機関を通して、相手に謝罪や配慮を求めることができるなら、ぜひそうするのが良いと思います。
アサーション・トレーニングの考え方から、①事実を明らかにし、②辛い思いをしていることを伝え、③相手に望む行動や配慮を提案し、④拒否や反発された場合の対応を考えておきます。冷静に、怒りをぶつけるようなことをせずにこれを行うことが肝心です。一度うまくいくと、とても自信が付きます。そのオーラが作用してか、なぜかそれ以降被害を受けなくなります。
しかし過去に受けた被害や、到底相手に対しアサーション的な対応など無理な場合、相手が人ではなく事故や災害の場合、何に傷つけられているのかよくわからない場合などは、被害感情は「被害者意識」に変わり、辛く苦しいフェルトセンスをずっと抱えることになります。人の言葉尻に過剰に反応して激高したり、人に優しくできなくなったりします。「忘れなさい」とか「明るく振る舞ったほうがいいよ」とか「あなたにも責任の一端がある」などと言われることも多いことでしょうが、その言葉が辛さを増幅します。
この長く続くフェルトセンスは、ジェンドリンの言葉を借りれば「ストッペイジ」です。これは、見かけ上プロセスが停止しているということです。でも、フェルトセンスに触れるたびに、ほんの少しずつプロセスは進むのです。これをジェンドリンは「リーフィング」といいます。次々に芽吹く木の葉の、その一枚一枚の形が皆少しつづ違っているという意味です。ですから、もし批判せず聴いてくれる人がいるなら、臆せず被害について語ったら良いのです。語るたびに少しずつ変化していきます。次第に、「被害者」というセルフイメージを手放すこともできるでしょう。
私たちのフェルトセンスは、常に前に向かって展開しようとしています。それは生命そのものです。それを確実に前に進めるのが傾聴であり、フォーカシングです。それでも長くかかるものは長くかかります。そう覚悟を決めて、一生かけて一歩進みましょう。それでも生物の進化のプロセスが何万年もかかることを思えば、爆速です。
四つの聖なる真理 (一心塾だより第36号)
明けましておめでとうございます。
雑念を活かす瞑想 一心塾だより 第35号
雑念は、悪者扱いされることが多いですが、自然に出て来るものに善悪の価値付けなどするから、「集中できない!」などと、イライラの原因になってしまいます。「よく出てきてくれました」と、大事に受け止めてあげるのが「雑念を活かす瞑想」です。雑念は心の絶え間ない表現活動です。生きている証です。
例えば、少し難しい本を読んでいるとします。気がつくと、目は字を追っているのに、頭の中では別のことを考えてしまい、ちっとも内容が頭に入らないということがよくあります。これも雑念です。集中を妨げます。気を取り直し、再び元のところから読み始めますが、やはりいつの間にか別世界へ。それで読むことをあきらめた本が一体何冊あるでしょうか。
「この本を読まねば」と思うことが、雑念を敵にします。逆に、「雑念が出てくるための読書」と思えば、もっと読書を楽しめるかもしれません。「雑念が出てきたら、『出てきてくれてありがとう』と思って瞑想してください」と教示して瞑想してもらうと、「そう言われたら、なぜか雑念が出てきませんでした」という感想をもらうことがよくあります。案外、読書のときも 「雑念が出てくるための読書」と思えば、逆に意外と集中できるかもしれません。
しかし、雑念を野放しにしてもいけません。野放しにしていると、雑念が概念として固まっていき、やがて概念が寄せ集まって自己意識が作り上げられていきます。自己意識が出来上がると、他者の持つ自己意識と相容れなくなり、無理解や喧嘩が起こります。これが仏教で五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言われる、苦しみの本質です。
私たちは、幼いうちから気づかないうちに自己意識を作り上げています。それは社会の一員として、何者かとして生きるための手段でもあるのですが、苦しみの元でもあると知る必要があります。
雑念を活かす瞑想では、雑念をありがたく受け止め、そこから考えをあまり展開させないようにして、概念を作らないようにします。そのために、頃合いを見て姿勢や呼吸へのマインドフルネスに戻るようにします。すると、次に出てくる雑念は、よりピッタリ言葉に近いものになる可能性があります。マインドフルネスによってからだとアクセスした結果、自然なフォーカシングが起こるのです。
雑念を活かす瞑想を続けていると、自己意識が柔軟になっていくと思います。それは苦しみが減ることであり、また自己意識が緩んだぶん、他者のフェルトセンスを感じ取りやすくなることでしょう。
雑念は絶え間ない表現活動であり、創造の源です。世俗を柔軟に、力強く、創造的に生きていくために、ぜひありがたく活用してください。。
フォーカサー・アズ・ティーチャー (一心塾だより33号)
フォーカサー・アズ・ティーチャー(FAT)というのは、ペアでフォーカシングする際に、フォーカサー(語り手)がリスナーの聴き方に任せきりになるのではなく、「こんな風な聴き方をして欲しい」という要望を随時出しながら、自らのフォーカシングに没頭する方法です。
フォーカシングを身につける上でとても強力な練習方法と言えますが、やろうとしても、日本人にとってはとりわけ難しく感じられかも知れません。自己表明するより、相手のやり方に委ねる姿勢を取るのが、日本人の文化として染み付いている甘えの構造なのですから。
リスナーがよほど察する力があり、語り手を丸ごと包み込むほどの聴き方ができるのなら、語り手も甘えていられますし、その方が自己に没頭できます。しかしリスナーが初心者であれば、語り手が依存しているだけではフォーカシングは進みにくいのです。またFATによって語り手がリスナーに要望を出すことで、リスナーも成長できます。
少し言い方を変えると、FATができるとは、甘えを自覚できるということです。
「良い甘え」と「悪い甘え」があります。甘えの自覚があるかどうかがその分岐点です。良い甘えとは、自分が誰にどういう部分について甘えざるを得ないのかを自覚して、感謝しつつ、よりよく甘えられるようにわがままを言わせてもらうことです。FATはまさに良い甘えの練習です。悪い甘えは、誰に何を甘えているのか自覚がないので、感謝もできないし、きちんとした要求をすることもできません。うまく甘えが満たされないので、不満が多くなります。また悪い甘えの一種である「甘え下手」は「迷惑を掛けたくない」という思いに囚われ、孤独へと向かいがちです。不満は少ないのですが、幸福感は得にくいでしょう。
ということで、フォーカシング・サンガではFATに力を入れていきたいと思います。そのため「フォーカサー心得」として、次の4枚のカードを用意します。①リスナーの聴き方に細かく注文する。②事情の説明は短く。③内的感覚の表現に自分で切り替える。③言いたいことの核心に自分で到達する。
①がFATの基本ですが、自立したフォーカサーであるために②③④の心がけも重要です。これによって、すでに活用している3つの「リスナー心得」の①「居るだけでいい」が、リアルな体験となってきます。
探索の楽しさ
「このレバーを押すと餌が出てくるんだ!」と気づいたときに、猿の頭からドーパミンという快楽ホルモンがドパっと出てくる、ということが実験で確かめられています。生活を快適にしたり、愉快さを感じられるものにしたりするのに、私たちがいろいろ探索行動をするのは、そこにワクワクする感覚があるからでしょう。もしドーパミンが出なかったら、ワクワク感もないので、別に今まで通りでいいじゃない、無駄な行動をしないほうがいいじゃない、という考えに落ち着いてしまうことでしょう。
現代はあまりにも便利なので、あまり探索行動をする必要がなくなりました。ネットですぐに知りたいことがわかりますし、コンビニで美味しいものが簡単に手に入ります。ドーパミンが出にくい世の中だと思います。でもそれでは人生は味気なく、すぐに「何のために生きているんだろう」というような疑問が出てきて、「早くお迎えがこないかなあ」なんて思いに取り憑かれます。
探索は見知らぬ土地やおいしい食べ物に限ったことではありません。そこは便利になったことを受け入れて、探索の先を、例えば芸術とか読書とか、哲学とか、何かの研究などに向ければよいのではないでしょうか。
しかしそのためにはベースとなる知識や体験がないと、探索のしようがありません。だからちょっと努力して、少しでも心惹かれることについては入門書から始めて、何冊か本を読むようにします。また実際にその土地に行ってみるようにします。そこから探索は無限に広がっていきます。おそらくそれは、認知症予防にもつながるでしょうし、足腰を衰えさせないでいたいから毎日歩こうというような健康志向にもつながるでしょう。