被害感情 <一心塾だより 第38号>
前回書きました「批評家」については、反響がいつも以上にあり、改めて批評家に悩まされている人は多いものだなと思いました。また、反響の中に「被害感情について知りたい」というコメントがありましたので、今日はそれについて考えてみたいと思います。
被害感情を持つと、相手への恨みや怒りで心が溢れそうになり、とても辛いものです。決して持ちたいわけではないですが、実際に被害を受けると持たざるを得ません。直接的に、または関係者や相応の機関を通して、相手に謝罪や配慮を求めることができるなら、ぜひそうするのが良いと思います。
アサーション・トレーニングの考え方から、①事実を明らかにし、②辛い思いをしていることを伝え、③相手に望む行動や配慮を提案し、④拒否や反発された場合の対応を考えておきます。冷静に、怒りをぶつけるようなことをせずにこれを行うことが肝心です。一度うまくいくと、とても自信が付きます。そのオーラが作用してか、なぜかそれ以降被害を受けなくなります。
しかし過去に受けた被害や、到底相手に対しアサーション的な対応など無理な場合、相手が人ではなく事故や災害の場合、何に傷つけられているのかよくわからない場合などは、被害感情は「被害者意識」に変わり、辛く苦しいフェルトセンスをずっと抱えることになります。人の言葉尻に過剰に反応して激高したり、人に優しくできなくなったりします。「忘れなさい」とか「明るく振る舞ったほうがいいよ」とか「あなたにも責任の一端がある」などと言われることも多いことでしょうが、その言葉が辛さを増幅します。
この長く続くフェルトセンスは、ジェンドリンの言葉を借りれば「ストッペイジ」です。これは、見かけ上プロセスが停止しているということです。でも、フェルトセンスに触れるたびに、ほんの少しずつプロセスは進むのです。これをジェンドリンは「リーフィング」といいます。次々に芽吹く木の葉の、その一枚一枚の形が皆少しつづ違っているという意味です。ですから、もし批判せず聴いてくれる人がいるなら、臆せず被害について語ったら良いのです。語るたびに少しずつ変化していきます。次第に、「被害者」というセルフイメージを手放すこともできるでしょう。
私たちのフェルトセンスは、常に前に向かって展開しようとしています。それは生命そのものです。それを確実に前に進めるのが傾聴であり、フォーカシングです。それでも長くかかるものは長くかかります。そう覚悟を決めて、一生かけて一歩進みましょう。それでも生物の進化のプロセスが何万年もかかることを思えば、爆速です。
四つの聖なる真理 (一心塾だより第36号)
明けましておめでとうございます。
雑念を活かす瞑想 一心塾だより 第35号
雑念は、悪者扱いされることが多いですが、自然に出て来るものに善悪の価値付けなどするから、「集中できない!」などと、イライラの原因になってしまいます。「よく出てきてくれました」と、大事に受け止めてあげるのが「雑念を活かす瞑想」です。雑念は心の絶え間ない表現活動です。生きている証です。
例えば、少し難しい本を読んでいるとします。気がつくと、目は字を追っているのに、頭の中では別のことを考えてしまい、ちっとも内容が頭に入らないということがよくあります。これも雑念です。集中を妨げます。気を取り直し、再び元のところから読み始めますが、やはりいつの間にか別世界へ。それで読むことをあきらめた本が一体何冊あるでしょうか。
「この本を読まねば」と思うことが、雑念を敵にします。逆に、「雑念が出てくるための読書」と思えば、もっと読書を楽しめるかもしれません。「雑念が出てきたら、『出てきてくれてありがとう』と思って瞑想してください」と教示して瞑想してもらうと、「そう言われたら、なぜか雑念が出てきませんでした」という感想をもらうことがよくあります。案外、読書のときも 「雑念が出てくるための読書」と思えば、逆に意外と集中できるかもしれません。
しかし、雑念を野放しにしてもいけません。野放しにしていると、雑念が概念として固まっていき、やがて概念が寄せ集まって自己意識が作り上げられていきます。自己意識が出来上がると、他者の持つ自己意識と相容れなくなり、無理解や喧嘩が起こります。これが仏教で五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言われる、苦しみの本質です。
私たちは、幼いうちから気づかないうちに自己意識を作り上げています。それは社会の一員として、何者かとして生きるための手段でもあるのですが、苦しみの元でもあると知る必要があります。
雑念を活かす瞑想では、雑念をありがたく受け止め、そこから考えをあまり展開させないようにして、概念を作らないようにします。そのために、頃合いを見て姿勢や呼吸へのマインドフルネスに戻るようにします。すると、次に出てくる雑念は、よりピッタリ言葉に近いものになる可能性があります。マインドフルネスによってからだとアクセスした結果、自然なフォーカシングが起こるのです。
雑念を活かす瞑想を続けていると、自己意識が柔軟になっていくと思います。それは苦しみが減ることであり、また自己意識が緩んだぶん、他者のフェルトセンスを感じ取りやすくなることでしょう。
雑念は絶え間ない表現活動であり、創造の源です。世俗を柔軟に、力強く、創造的に生きていくために、ぜひありがたく活用してください。。
フォーカサー・アズ・ティーチャー (一心塾だより33号)
フォーカサー・アズ・ティーチャー(FAT)というのは、ペアでフォーカシングする際に、フォーカサー(語り手)がリスナーの聴き方に任せきりになるのではなく、「こんな風な聴き方をして欲しい」という要望を随時出しながら、自らのフォーカシングに没頭する方法です。
フォーカシングを身につける上でとても強力な練習方法と言えますが、やろうとしても、日本人にとってはとりわけ難しく感じられかも知れません。自己表明するより、相手のやり方に委ねる姿勢を取るのが、日本人の文化として染み付いている甘えの構造なのですから。
リスナーがよほど察する力があり、語り手を丸ごと包み込むほどの聴き方ができるのなら、語り手も甘えていられますし、その方が自己に没頭できます。しかしリスナーが初心者であれば、語り手が依存しているだけではフォーカシングは進みにくいのです。またFATによって語り手がリスナーに要望を出すことで、リスナーも成長できます。
少し言い方を変えると、FATができるとは、甘えを自覚できるということです。
「良い甘え」と「悪い甘え」があります。甘えの自覚があるかどうかがその分岐点です。良い甘えとは、自分が誰にどういう部分について甘えざるを得ないのかを自覚して、感謝しつつ、よりよく甘えられるようにわがままを言わせてもらうことです。FATはまさに良い甘えの練習です。悪い甘えは、誰に何を甘えているのか自覚がないので、感謝もできないし、きちんとした要求をすることもできません。うまく甘えが満たされないので、不満が多くなります。また悪い甘えの一種である「甘え下手」は「迷惑を掛けたくない」という思いに囚われ、孤独へと向かいがちです。不満は少ないのですが、幸福感は得にくいでしょう。
ということで、フォーカシング・サンガではFATに力を入れていきたいと思います。そのため「フォーカサー心得」として、次の4枚のカードを用意します。①リスナーの聴き方に細かく注文する。②事情の説明は短く。③内的感覚の表現に自分で切り替える。③言いたいことの核心に自分で到達する。
①がFATの基本ですが、自立したフォーカサーであるために②③④の心がけも重要です。これによって、すでに活用している3つの「リスナー心得」の①「居るだけでいい」が、リアルな体験となってきます。
探索の楽しさ
「このレバーを押すと餌が出てくるんだ!」と気づいたときに、猿の頭からドーパミンという快楽ホルモンがドパっと出てくる、ということが実験で確かめられています。生活を快適にしたり、愉快さを感じられるものにしたりするのに、私たちがいろいろ探索行動をするのは、そこにワクワクする感覚があるからでしょう。もしドーパミンが出なかったら、ワクワク感もないので、別に今まで通りでいいじゃない、無駄な行動をしないほうがいいじゃない、という考えに落ち着いてしまうことでしょう。
現代はあまりにも便利なので、あまり探索行動をする必要がなくなりました。ネットですぐに知りたいことがわかりますし、コンビニで美味しいものが簡単に手に入ります。ドーパミンが出にくい世の中だと思います。でもそれでは人生は味気なく、すぐに「何のために生きているんだろう」というような疑問が出てきて、「早くお迎えがこないかなあ」なんて思いに取り憑かれます。
探索は見知らぬ土地やおいしい食べ物に限ったことではありません。そこは便利になったことを受け入れて、探索の先を、例えば芸術とか読書とか、哲学とか、何かの研究などに向ければよいのではないでしょうか。
しかしそのためにはベースとなる知識や体験がないと、探索のしようがありません。だからちょっと努力して、少しでも心惹かれることについては入門書から始めて、何冊か本を読むようにします。また実際にその土地に行ってみるようにします。そこから探索は無限に広がっていきます。おそらくそれは、認知症予防にもつながるでしょうし、足腰を衰えさせないでいたいから毎日歩こうというような健康志向にもつながるでしょう。
「芯の強さ」とは?
先日ある方にお会いして、「とても芯の強い人だなあ」という印象を持ちました。苦労を重ねた経験もお持ちでしたが、楽観的でポジティブな考えの持ち主でもありました。
その方とお会いした後、「芯の強さって何だろう?」と少し考えてみました。
ヨーガのアーサナでは姿勢を支える筋肉を鍛えて柔軟にします。鍛えないと柔軟になりません。姿勢を支えているのは骨に近いところにある内筋(インナーマッスル)と呼ばれる筋肉です。これが弱いままだと、硬くなることで骨を支えようとするのです。硬いとアーサナのようなストレッチ系の体操が苦しくて避けようとしますから、ますます硬くなるという悪循環になります。
日常生活の中で姿勢を乱さないようにしたり、なるべく立っている時間を増やすことで、少しずつ内筋が鍛えられ、アーサナが楽しくなってきます。身体的な面で「芯の強さ」というのは、このように内筋の強さ・柔軟さと言い換えられるのではないでしょうか。
では心の方はどうでしょう。身体の芯が強ければ、心の芯も強くなると単純なことは言えません。しかし心と身体は構造がよく似ていると私は常々感じています。ですから心の芯が強い人とは、心の内筋が鍛えられて柔軟な人と言えるのではないかと考えてみました。
どういうことでしょうか。心の内筋は「面倒くさい」とか「どうして自分がそれをやらなきゃならないの?」というようなマイナスの思いを持つことなく、さっと行動に移すことで鍛えられます。この心構えを持っていれば、自然と生活や仕事上の技術が培われていきます。そのように鍛えられた心の内筋は柔軟さを備えるようになります。それは人に対する「優しさ」です。細かい気配りができる人はやはり「心の芯の強い人」と言えるのではないでしょうか。
寝る前のお祈り
『アメリカの小学生が学ぶ教科書』に、向こうの子どもが寝る前に唱える祈りの言葉が載っていました。
Now I Lay Me 「お休みの祈り」
Now I lay me down to sleep, これからおやすみの床につきます
I pray the Lord my soul to keep. どうか、神さまわたしの魂をお守りください
If I should die before I wake, もしも目覚める前に死んでしまったときには
I pray the Lord my soul to take. どうか、神さま魂はあなたのおそばに
教科書に宗教的な言葉を入れるのは日本では許されないでしょうが、アメリカの子どもたちは17世紀からこの詩を覚えてきたのだそうです。
この祈りの言葉を幼い頃から唱えることは、きっと自死予防につながってきたと私は思います。子どもは死のことを考えたりしないと考えるのは間違いだと思います。子どもには、もしかしたら大人より豊かに想像する力がありますから、死のことを想像することはあるでしょう。でもそれをお母さんに尋ねたら、「そんな事考えないで!」ときっと言われるでしょうね。
そう言われたら、もう自分で考えるしかありません。なんの導きもないままに考えるのは、深い森に一人でさまよい込むような感覚かもしれません。そう考えると、冒頭の詩には深い知恵があります。「心配しなくても大丈夫だよ」と語りかけてくれます。精神の生命保険のようなものです。
宗教と科学は対立するものではありません。いや、対立することがあるとしたらそれは宗教の悪しき部分です。太陽の周りを地球が回っているという観測的事実をカトリック教会は認めないということがかつてありました。今でも、女性は男性より劣っているから要職には就かせられないという、科学的事実に基づかないことを普通に信じている宗教があります。
伝統が偏見を助長します。偏見を打破していくのが科学です。宗教は心の安定のために必要なものなのに、内に偏見を宿していては本末転倒です。宗教と科学は手を組んで互いに高め合うことができるし、そうあってほしいと願います。