from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

寝る前のお祈り

アメリカの小学生が学ぶ教科書』に、向こうの子どもが寝る前に唱える祈りの言葉が載っていました。

Now I Lay Me          「お休みの祈り」

Now I lay me down to sleep,  これからおやすみの床につきます

I pray the Lord my soul to keep. どうか、神さまわたしの魂をお守りください

If I should die before I wake,  もしも目覚める前に死んでしまったときには

I pray the Lord my soul to take. どうか、神さま魂はあなたのおそばに

 

 教科書に宗教的な言葉を入れるのは日本では許されないでしょうが、アメリカの子どもたちは17世紀からこの詩を覚えてきたのだそうです。

 この祈りの言葉を幼い頃から唱えることは、きっと自死予防につながってきたと私は思います。子どもは死のことを考えたりしないと考えるのは間違いだと思います。子どもには、もしかしたら大人より豊かに想像する力がありますから、死のことを想像することはあるでしょう。でもそれをお母さんに尋ねたら、「そんな事考えないで!」ときっと言われるでしょうね。

 そう言われたら、もう自分で考えるしかありません。なんの導きもないままに考えるのは、深い森に一人でさまよい込むような感覚かもしれません。そう考えると、冒頭の詩には深い知恵があります。「心配しなくても大丈夫だよ」と語りかけてくれます。精神の生命保険のようなものです。

 宗教と科学は対立するものではありません。いや、対立することがあるとしたらそれは宗教の悪しき部分です。太陽の周りを地球が回っているという観測的事実をカトリック教会は認めないということがかつてありました。今でも、女性は男性より劣っているから要職には就かせられないという、科学的事実に基づかないことを普通に信じている宗教があります。

 伝統が偏見を助長します。偏見を打破していくのが科学です。宗教は心の安定のために必要なものなのに、内に偏見を宿していては本末転倒です。宗教と科学は手を組んで互いに高め合うことができるし、そうあってほしいと願います。

フォーカサーの集い in しまね

 8月24日(土)、25日(日)の二日間、島根県民会館にて「フォーカサーの集い in しまね」が開催されます。全国からフォーカシングの愛好者、研究者が集まり、様々なワークを参加者と共有します。
 24日(土)の10:00~12:00は一般公開ワークショップですので、どなたでも参加できます。フォーカサーの集い in しまねのウェブサイト( https://focusing.jp/conf )からお申し込みください。参加費は1000円です(当日お支払い)。

公開ワークショップは次の4つのコースがあります。
A. フォーカシング的♡子どもの気持ちへの寄り添い方 
B. 傾聴とフォーカシング 
C. 支援者のためのフォーカシング~セラピスト・フォーカシング~ 
D. インタラクティブ・フォーカシング 
 詳しい内容や講師のプロフィールは上記ウェブサイトでご確認ください。
 また一心塾のウェブサイト(https://www.sinsined.com/event)からチラシをダウンロードできます。

 24日午後からの参加は、日本フォーカシング協会の会員である必要がありますが、同協会のウェブサイト(https://focusing.jp/)から会員申込みができます(年会費3000円)。協会会員は公開ワークショップの参加が無料になります。

現実認識を歪める思考を見極める

 前回はネガティブ思考やポジティブ過ぎる思考の止め方について書きました。簡単に言えば、「この思考は現実認識を歪めている」と気づいて、呼吸にしばらく集中することで平常心に戻るよう日々練習するのみです。

 やり方は簡単ですが、私たちはそのような思考に真実味を感じていますので、そうやすやすとこれを手放そうとしません。だから「この思考は現実認識を歪めている」と気づくこと自体が難しいのです。また思考は伏流水のように表に現れることなく流れているものも多くあります。頭の中でもはっきり言語化されておらず、漠然と思っているという状態がもっとも強力に現実認識を歪めています。なぜなら伏流水のような思考は自分自身で気づきにくいからです。

 現実をありのままに見ないなんて、そんな不自然なことをなぜ私たちは身につけたのでしょうか。やはり成長の過程のどこかで、そんなふうに考えたほうが都合が良いという事態があったのだと思います。その方が心が傷つかないから、その方が楽だから、その方が手っ取り早く得するから、そんな子どもなりの無自覚な計算が身についてしまうのでしょう。

 しかし、すべての思考が現実認識を歪めているわけではありません。今考えていることが現実認識を歪めているか否かを見極める方法を私たちは知っている必要があります。

 その思考に浸っているときにどんどん不安になる、ますます腹が立つ、いよいよ面倒臭くなるというのであれば、これは思考の背景にある感情が増幅されているわけですから、その思考は現実認識を歪めている可能性があります。またポジティブ過ぎる思考に浸っているとだんだん興奮してくるので、これもやめたほうが良さそうです。

 逆に、その思考に浸っているときに落ち着いてくる感じ、目の前が明るくなるような感じ、心が晴れる感じがあるなら、その思考はしっかりした現実認識の上に成り立っていると言えます。その思考によって得られる結論は、自分に良く、相手に良く、世間に良いものとなります。さらに必然性も備えています。

思考や行動を歪める感情の取り扱い 一心塾だより 第30号

 不安、自己否定、怒り、無気力、執着、嫉妬、孤独感、劣等感、自責感、めんどくさい、自己憐憫・・・ネガティブ感情を挙げたらキリがないのですが、これらは強い引力で心を引きずり込み、思考や行動を歪めます。逆に「自分は何でもできる凄いやつだ」、「皆自分より劣っている」などのポジティブ過ぎる感情も、同じ理由で思考や行動を歪めます。誰でも一つか二つ、そうした感情と<お友だち>しているのではないでしょうか。それによって物事や人間関係を正しく認識することができないでいます。
 多くの人は自分がどんな感情に陥りやすいか気づいています。でも気づいているのに、そこに引きずり込まれることに対して防衛策を持っていません。引きずり込まれ、その感情に浸ることはちょっとした快感も伴い、依存的になっているからです。脳から快感ホルモンが出ているのかもしれないですね。
 でもこのことを知ったのなら、ぜひそうした感情に引きずり込まれないよう踏みとどまってください。踏みとどまるとは、その感情をベースに思考しないことです。その感情に対して安全な距離を保ちながら、30秒ほどフェルトセンスが立ち上がるのを待ってください。
 難しいでしょうか。これを難しく感じる人は、マインドフルネスを練習してください。しばらく呼吸を観察するだけで結構です。その間何も考えないようにしてください。筋肉の伸びを感じながらヨーガのポーズを行うマインドフルネス・ヨーガもお勧めです。そして再度感情と向き合ってみてください。セルフ・フォーカシングです。
 日々セルフ・フォーカシングすることでそうした感情に引きずり込まれないようになります。毎日の練習が大事です。毎日練習しないと、そうした感情に対抗できるようにならないのです。毎日やれば効果は確実に実感できます。物事がよりクリアに見え、人間関係が楽になります。そしてフォーカシングのリスナーとしても上達します。

「甘えとストレス」 一心塾だより 第29号

 3月に『甘えとストレス』という本を上梓しまして、私としては2冊めの著書となりました。1冊めは『こころの天気を感じてごらん』で、こころの天気描画法について書いたのですが、なぜか後半の第2部は「甘え論」になっています。こころの天気を描くとどうして晴れの方向に向かっていくのだろうかという疑問について、書きながら考えるうちに「甘え論」になったという感じです。少し難しめの本になってしまったので、今度の本は事例を交えてわかりやすく甘えを解説してみました。
 『甘えとストレス』の中で私は「ギブ アンド ギブ」という言葉を何度か使いました。甘えとは、相手に対する暗黙の期待という一面があります。何かを与えたときに、その見返りを期待するのはギブアンドテイクです。ところが見返りが期待通りに得られないことがよくあります。そのときに私たちはストレスを感じるのです。
 ストレスを感じるくらいなら、期待などしない方がマシです。しかし自分の中の暗黙の期待に気づくには何度もフォーカシングをする必要があるでしょう。そして期待がなくなったら純粋に相手に与えることができるようになります。これがギブアンドギブです。暗黙の期待があるうちは心にフィルターが掛かって、相手が一番必要としているものが見えてきませんが、期待がなければそれがよく見えます。
 相手が暗黙のうちに一番必要としているもの。それは自分が暗黙のうちに必要としているものでもあります。それは理解と受容であると私は考えています。

マインドフルネス・ヨーガ (一心塾だより28号)

 今なされている心身の活動に100%集中し、自分が今何を行い、何を感じているかにしっかりと気づいていることを「マインドフルネス」(以下、MF)といいます。

 例えば食べているときに、食べることのみに集中します。しかしそれでも「噛むこと」という動作への気づきもありますし、味という感覚への気づきもあります。食べているときに浮かんでくる「美味しい!」などの感情に対する気づきもあります。それぞれに「身体のMF」、「感覚のMF」、「心のMF」と呼ばれます。本当は「心の対象のMF」というのもありますが、複雑なのでここでは省略します。

 この3つのMFは、例えば歯を磨きながら、料理をしながらなど、何をやっているときでも実践が可能です。実践にあたっては、気づいたことを心のうちでいちいちイメージ化したり、言語化したり、イメージ化したものを言語化したりと、けっこう頭を使います。そうすることで集中力が高まりますので、ぜひ日常に取り入れたら良いと思います。

 マインドフルネス・ヨーガでは、通常のアーサナ(体操)を行いながら、身体のMFと感覚のMF を行います。このやり方だと無理をしなくなりますので、身体を痛めることがありませんし、それでいて効率よく柔軟性を獲得することができます。筋肉の伸び具合や、その感覚に気づいていると、筋肉がフッと緩んでくれるのです。フォーカシング的な言い方をすれば、リスナーとして筋肉の声を聴きながらヨーガを行うということです。筋肉はフェルトセンスとよく似ていて、的確にその声を聴いてあげるとシフトによって緩む瞬間を体験できます。甘えの理論で言えば、顧みられることなくふて腐れて硬くなっていた筋肉が、マインドフルネス・ヨーガによって甘えが満たされ、柔らかくなり、機嫌良く働き始めてくれます。

 マインドフルネス・ヨーガはセルフ・フォーカシングのとても良い練習です。同じように甘えを満たすという感覚を得るための良い練習でもあります。

 また瞑想のときには、心のMFを行います。これはそのままセルフ・フォーカシングです。浮かんでくる想念(雑念ともいいますね)やそれに伴う気持ちに対してリスナーとして気づいています。ただそれだけです。後は心に任せておけば、シフトに至ります。

 マインドフルネス・ヨーガによって、心も筋肉も、本当は機嫌よく働きたいのだということがよくわかるようになります。心と筋肉を合わせて「身」と言うならば、身は私たちに生きる方向性を示しながら、私たちを励ましてくれていることが徐々にわかるようになります。ありがたいことだと思います。

フォーカシングにおけるマインドフルネス

 

 今なされている心身の活動に100%集中し、没入することを「マインドフルネス」(以下、MF)といいます。 といっても我を忘れているわけではありません。ちゃんとその活動を行っていることに自分で気づいています。

    例えば食べているときに、食べることのみに完全に集中しています。それが「食べることに対するMF」です。テレビやスマホを見ながらとか、おしゃべりしながらではMFになりません。同じように、呼吸にのみ集中すれば、「呼吸に対するMF」です。これらは「身体に対するMF」です。

 「感覚に対するMF」もあります。例えば、聞こえてくる物音に耳を澄ましているときは「音に対するMF」です。食べているときでも、食べ物を口に運ぶ動作や噛むことへの集中は「身体に対するMF」ですが、味に集中していれば「感覚に対するMF」です。

 そして何か活動しているときには心も活動しています。ですから「心のMF」というのもあるわけです。食事を味わいながら、その味から引き起こされる感情に集中すると、それは心のMFです。何もせずにただ座っているときでも心の活動に集中することはできます。これを「MF瞑想」と呼ぶことが多いようです。

 MFでは100%集中し、没入しているけど、我を忘れているわけではありません。この辺りが少しわかりにくい思います。私なりの解説になりますが、“我を忘れていない”とは、集中し没入している対象を言語的に、あるいはイメージ的に意識できているということです。美味しいものを味わっているときは、「しっかりした食感、あっさりしているけど奥深さがある。奈良のお寺を彷彿とさせるような・・」などと頭が回転しています。これが、味わうということではないでしょうか。一方で活動に没入し、一方で観察し、意識化しているのです。観察だけで言語化やイメージ化しないでいると、ぼんやりしてしまって、そのうちに他のことに気が移ってしまいます。しっかり「今」を味わうためには言語化やイメージ化が必要なのです。

 なぜMFが重要かというと、今という瞬間にのみ私たちは生きているからです。この瞬間を100%味わうのでなければ、生は色あせ、悩みは尽きません。

 さて、フォーカシングとMFはどのように関連しているのでしょうか。

 その前にフォーカシングをきちんと理解しておく必要があります。それにはまず体験過程を理解しなければなりません。

 体験過程とは一言でいえば「感じ」です。私たちが食べているときも、歩いているときも、なにかに不安になっているときも、私たちは何らかの「感じ」を味わっています。感じそのものは現在感じられているのですが、過去の体験の影響も受けていますし、未来への希望や心配も反映しています。もしあなたが「感じ」を失ってしまったなら、それは生きていても生きている実感がないという、なんとも絶望的な状況に違いありません。

 その体験過程を(もし失っていないなら)、私たちはすぐに意識化することができます。「あー、腹へったなぁ」とか「ちょっと疲れた」とか、そんな他愛もないことです。それらは食べるとか休むという行動を導きますから、体験過程は私たちの未来の行動を「含意」しています。そして食べたり休んだりすれば、体験過程は変化して、「満腹」や「元気」という感じになるわけです。

 ところが私たちの生活は単純なことばかりではありませんから、体験過程も複雑な意味を含意することになり、どうしていいかわからなくなることがしばしばあるのです。

 そいういうときにフォーカシングはとても力強い方法です。まずその感じにまつわることをいろいろ言葉にしていきます。言葉にするにはしっかりと寄り添って聴いてくれるリスナーの存在が必要です。ある程度語ったところで、リスナーが「ここまで語って今どんな感じですか」と問うと、フォーカサーのからだにフェルトセンスが立ち上がってきています。

 フェルトセンスも「感じ」ではありますが、フェルトセンスの方はもう少し人格や意図を感じさせます。ですからフェルトセンスに対して「何を伝えたいのか?」と問うことで、私たちはフェルトセンスの願いを知ることができます。後はどのようにフェルトセンスの願いをかなえるかを考えてあげればよいわけです。

 フォーカシングに慣れてくると、セルフフォーカシングができるようになります。つまり自分の中に「内なるリスナー」が育つのです。この内なるリスナーは、MFにおける観察者であり、言語化やイメージ化を担当する存在にもなります。ですから普段から日常の活動においてMFを行うようにしていれば、セルフフォーカシングを行う準備が整うことになります。

 セルフフォーカシングは「体験過程に対するMF」と捉えたら良いでしょう。つまりある事柄について思いつくままに言葉を心の中で発していき、それを内なるリスナーが聴いてやります。そのうちに「感じ」が出てきますので、その感じを言語化したりイメージ化したりしているうちにフェルトセンスが立ち上がってきたら、その言わんとするところを聞き取ってやります。 感じを言語化しているだけで感じが変化していくこともあります。それはそれで立派なフォーカシングといえます。

 最後にMFを世界に広めたティック・ナット・ハン師の『ブッダの<気づき>の瞑想』から重要部分を引用しておきましょう。<気づき>とはMFのことです。また引用中の「経典」とは、仏陀がMFについて直接説いた唯一の経典と言われる四念処経(しねんじょきょう、「4つのMF」の意)のことです。そしてこの本は四念処経の解説本です。

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<気づき>は観察する心ですが、見る対象の外側にあるわけではありません。気づきは直に対象に入り込み、それと一つになります。観察する心の本質は<気づき>であり、それは対象の中でその力を失うことなく光を注ぎ変化をもたらします。太陽の光が浸透し、木々や植物を変えていくように。物事をよく見て理解したければ、対象に入り込み、それと一つにならなくてはなりません。外側にいて眺めているだけでは、真に見て理解することは不可能です。観察とは、入り込んで変化させる働きです。だからこそ経典には、「身体において身体を観察する。感覚において感覚を観察する。心において心を観察する。心の対象において心の対象を観察する」とあるのです。その説明は実に明快です。深く観察をする心は、単なる観察者ではなく参加者です。観察者が参加者であるとき、初めて変化が起こります。

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 この部分を読むと、MFとフォーカシングが一つのことであるように思えてくるのです。