from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

無心

 瞑想のときにでてくる様々な想念は、マインドフルネスを保つには邪魔になるけど、無視するにも忍びないという思いがあって、大変難しい問題だと感じてきました。しかし座禅や瞑想の専門家がこれについて言及しているのを滅多に目にしません。つまり想念は「雑念」または「妄念」であって、省みるに値しないという立場の先生方が多いわけです。哲学者の永井均さんも瞑想を実践されていますが、曹洞宗の藤田一照さんらとの対談本『仏教3.0を哲学する』で「私は個々の雲をいちいち観察することにも意義はある、と思う(略)自分はどんな映画を見るようにできているのかを観察し、自分の様々な偶有的で付随的な属性を知ることができるからである」(p275)と述べています。ちなみ「雲」も「映画」もここでは想念のことを喩えて言っています。また昨年、松江で講演とワークショップをしていただいたプラユキ・ナラテボーさんは著書『自由に生きる』の第4章「たかが言葉、されど言葉」でこの問題を語っています。私の知る限りこのお二人だけが瞑想中の想念の重要性について語っています。
 私はフォーカシングの影響もあって想念を大事にしてきましたが、やはり想念を一度はきっちりクリアする必要があるという考えに辿り着きました。何か想念が浮かんだら「無心、無心」と3~5回程度心のなかで唱えることで”無”の状態を作ります。それは10秒程度しか持続しませんが、想念が浮かぶたびにこれを繰り返します。しかし「無心」を唱え続けるのは良くありません。「無心」と考えるのも一つの想念だからです。
 そのうちにただの雑念と、考えるに値する大事な想念の区別が付くようになりますので、雑念は捨て、大事な想念については納得行くまで(つまりフォーカシング的にからだがOKを出すまで)考えます。浮かぶのは思考だけではなく、イメージの場合もあります。イメージもまたどうでもよい雑イメージと重要なイメージがあります。重要なイメージについてはやはりフォーカシング的にイメージの変化を追います。思考にしろ、イメージにしろ終わればまた「無心、無心、」と心のなかで唱え、“無”を味わいます。
 ”無”の状態にあるとき、呼吸やからだの感じが感覚器官になだれ込みます。からだの内側に光を感じることもあります。部屋のエアコンを止めたら急に時計の音や外の鳥の鳴き声が聞こえて来たという体験に似ています。“無”ですから、呼吸やからだの感じに"注意を向けようという”というような努力もしていません。このとき仏教で非常に重視している「観察者と観察対象がひとつになること」が実現します。これを「無分別智」または「般若」といいます。これが本来のマインドフルネスです。
 「無心、無心、」と心の中で唱えるのは、何も瞑想中だけのことではありません。ヨーガをしながら、歩きながら、食べながらなど、どんなときでも実行可能です。ヨーガのときはやはり、今行っているアーサナで刺激される体の部位の感覚が自然に流れ込んで来ますので、そこに自然に意識が向けられることで筋肉が緩むのもスピードアップします。そして食べているときは食物の味わいがしっかり感じられるようになります。
 無心の練習はそう難しいことではありません。また無心を練習することで、自己否定的な考え(フォーカシングでは「批評家」といいます)に悩まされている方も次第にそれをコントロールできるようになるでしょう。