from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

マインドフルネス・ヨーガ (一心塾だより28号)

 今なされている心身の活動に100%集中し、自分が今何を行い、何を感じているかにしっかりと気づいていることを「マインドフルネス」(以下、MF)といいます。

 例えば食べているときに、食べることのみに集中します。しかしそれでも「噛むこと」という動作への気づきもありますし、味という感覚への気づきもあります。食べているときに浮かんでくる「美味しい!」などの感情に対する気づきもあります。それぞれに「身体のMF」、「感覚のMF」、「心のMF」と呼ばれます。本当は「心の対象のMF」というのもありますが、複雑なのでここでは省略します。

 この3つのMFは、例えば歯を磨きながら、料理をしながらなど、何をやっているときでも実践が可能です。実践にあたっては、気づいたことを心のうちでいちいちイメージ化したり、言語化したり、イメージ化したものを言語化したりと、けっこう頭を使います。そうすることで集中力が高まりますので、ぜひ日常に取り入れたら良いと思います。

 マインドフルネス・ヨーガでは、通常のアーサナ(体操)を行いながら、身体のMFと感覚のMF を行います。このやり方だと無理をしなくなりますので、身体を痛めることがありませんし、それでいて効率よく柔軟性を獲得することができます。筋肉の伸び具合や、その感覚に気づいていると、筋肉がフッと緩んでくれるのです。フォーカシング的な言い方をすれば、リスナーとして筋肉の声を聴きながらヨーガを行うということです。筋肉はフェルトセンスとよく似ていて、的確にその声を聴いてあげるとシフトによって緩む瞬間を体験できます。甘えの理論で言えば、顧みられることなくふて腐れて硬くなっていた筋肉が、マインドフルネス・ヨーガによって甘えが満たされ、柔らかくなり、機嫌良く働き始めてくれます。

 マインドフルネス・ヨーガはセルフ・フォーカシングのとても良い練習です。同じように甘えを満たすという感覚を得るための良い練習でもあります。

 また瞑想のときには、心のMFを行います。これはそのままセルフ・フォーカシングです。浮かんでくる想念(雑念ともいいますね)やそれに伴う気持ちに対してリスナーとして気づいています。ただそれだけです。後は心に任せておけば、シフトに至ります。

 マインドフルネス・ヨーガによって、心も筋肉も、本当は機嫌よく働きたいのだということがよくわかるようになります。心と筋肉を合わせて「身」と言うならば、身は私たちに生きる方向性を示しながら、私たちを励ましてくれていることが徐々にわかるようになります。ありがたいことだと思います。

フォーカシングにおけるマインドフルネス

 

 今なされている心身の活動に100%集中し、没入することを「マインドフルネス」(以下、MF)といいます。 といっても我を忘れているわけではありません。ちゃんとその活動を行っていることに自分で気づいています。

    例えば食べているときに、食べることのみに完全に集中しています。それが「食べることに対するMF」です。テレビやスマホを見ながらとか、おしゃべりしながらではMFになりません。同じように、呼吸にのみ集中すれば、「呼吸に対するMF」です。これらは「身体に対するMF」です。

 「感覚に対するMF」もあります。例えば、聞こえてくる物音に耳を澄ましているときは「音に対するMF」です。食べているときでも、食べ物を口に運ぶ動作や噛むことへの集中は「身体に対するMF」ですが、味に集中していれば「感覚に対するMF」です。

 そして何か活動しているときには心も活動しています。ですから「心のMF」というのもあるわけです。食事を味わいながら、その味から引き起こされる感情に集中すると、それは心のMFです。何もせずにただ座っているときでも心の活動に集中することはできます。これを「MF瞑想」と呼ぶことが多いようです。

 MFでは100%集中し、没入しているけど、我を忘れているわけではありません。この辺りが少しわかりにくい思います。私なりの解説になりますが、“我を忘れていない”とは、集中し没入している対象を言語的に、あるいはイメージ的に意識できているということです。美味しいものを味わっているときは、「しっかりした食感、あっさりしているけど奥深さがある。奈良のお寺を彷彿とさせるような・・」などと頭が回転しています。これが、味わうということではないでしょうか。一方で活動に没入し、一方で観察し、意識化しているのです。観察だけで言語化やイメージ化しないでいると、ぼんやりしてしまって、そのうちに他のことに気が移ってしまいます。しっかり「今」を味わうためには言語化やイメージ化が必要なのです。

 なぜMFが重要かというと、今という瞬間にのみ私たちは生きているからです。この瞬間を100%味わうのでなければ、生は色あせ、悩みは尽きません。

 さて、フォーカシングとMFはどのように関連しているのでしょうか。

 その前にフォーカシングをきちんと理解しておく必要があります。それにはまず体験過程を理解しなければなりません。

 体験過程とは一言でいえば「感じ」です。私たちが食べているときも、歩いているときも、なにかに不安になっているときも、私たちは何らかの「感じ」を味わっています。感じそのものは現在感じられているのですが、過去の体験の影響も受けていますし、未来への希望や心配も反映しています。もしあなたが「感じ」を失ってしまったなら、それは生きていても生きている実感がないという、なんとも絶望的な状況に違いありません。

 その体験過程を(もし失っていないなら)、私たちはすぐに意識化することができます。「あー、腹へったなぁ」とか「ちょっと疲れた」とか、そんな他愛もないことです。それらは食べるとか休むという行動を導きますから、体験過程は私たちの未来の行動を「含意」しています。そして食べたり休んだりすれば、体験過程は変化して、「満腹」や「元気」という感じになるわけです。

 ところが私たちの生活は単純なことばかりではありませんから、体験過程も複雑な意味を含意することになり、どうしていいかわからなくなることがしばしばあるのです。

 そいういうときにフォーカシングはとても力強い方法です。まずその感じにまつわることをいろいろ言葉にしていきます。言葉にするにはしっかりと寄り添って聴いてくれるリスナーの存在が必要です。ある程度語ったところで、リスナーが「ここまで語って今どんな感じですか」と問うと、フォーカサーのからだにフェルトセンスが立ち上がってきています。

 フェルトセンスも「感じ」ではありますが、フェルトセンスの方はもう少し人格や意図を感じさせます。ですからフェルトセンスに対して「何を伝えたいのか?」と問うことで、私たちはフェルトセンスの願いを知ることができます。後はどのようにフェルトセンスの願いをかなえるかを考えてあげればよいわけです。

 フォーカシングに慣れてくると、セルフフォーカシングができるようになります。つまり自分の中に「内なるリスナー」が育つのです。この内なるリスナーは、MFにおける観察者であり、言語化やイメージ化を担当する存在にもなります。ですから普段から日常の活動においてMFを行うようにしていれば、セルフフォーカシングを行う準備が整うことになります。

 セルフフォーカシングは「体験過程に対するMF」と捉えたら良いでしょう。つまりある事柄について思いつくままに言葉を心の中で発していき、それを内なるリスナーが聴いてやります。そのうちに「感じ」が出てきますので、その感じを言語化したりイメージ化したりしているうちにフェルトセンスが立ち上がってきたら、その言わんとするところを聞き取ってやります。 感じを言語化しているだけで感じが変化していくこともあります。それはそれで立派なフォーカシングといえます。

 最後にMFを世界に広めたティック・ナット・ハン師の『ブッダの<気づき>の瞑想』から重要部分を引用しておきましょう。<気づき>とはMFのことです。また引用中の「経典」とは、仏陀がMFについて直接説いた唯一の経典と言われる四念処経(しねんじょきょう、「4つのMF」の意)のことです。そしてこの本は四念処経の解説本です。

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<気づき>は観察する心ですが、見る対象の外側にあるわけではありません。気づきは直に対象に入り込み、それと一つになります。観察する心の本質は<気づき>であり、それは対象の中でその力を失うことなく光を注ぎ変化をもたらします。太陽の光が浸透し、木々や植物を変えていくように。物事をよく見て理解したければ、対象に入り込み、それと一つにならなくてはなりません。外側にいて眺めているだけでは、真に見て理解することは不可能です。観察とは、入り込んで変化させる働きです。だからこそ経典には、「身体において身体を観察する。感覚において感覚を観察する。心において心を観察する。心の対象において心の対象を観察する」とあるのです。その説明は実に明快です。深く観察をする心は、単なる観察者ではなく参加者です。観察者が参加者であるとき、初めて変化が起こります。

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 この部分を読むと、MFとフォーカシングが一つのことであるように思えてくるのです。

 
   

ちょっとだけがんばるコツ

 「がんばる」とか「がんばって」という言葉が、人によっては辛く響く場合があるので、あまり使われなくなってきたように感じています。

 でも、がんばりたいこともあるんですよね。そういうときに「がんばれ」と言ってもらうと励みになることも確かです。だから本人ががんばっているときは「がんばってるね」と言い、「がんばりたい」と表明しているときは「がんばれ」と言い、くたびれた感じのときは、がんばれとは言わず、「大変だね」とねぎらうのが良いのではないでしょうか。

 最近は私は、いまブームでもある筋トレをしていますが、例えば腕立て伏せで何とか10回できるところを、休み休みでもがんばって12回やると、次の日、10回やることが楽に感じられます。力がついたんだ、と嬉しくなりますし、達成感を感じます。

 新聞を読むにしても、専門家が寄稿した長い文章などは無視したくなりますが、ちょっとがんばって読むようにすると、だんだん抵抗なく読めるようになります。筋肉と同じように読書力がついてくるのだと思います。

 同じように、ちょっとめんどうだとか、自分には無理だと避けてしまっていることでも、ちょっとずつがんばることで、言い換えれば、ちょっとずつ向き合うことで、必ず進歩していきますし、それには満足感も達成感も伴います。それがちょっとだけがんばるコツだと思います。子どもにもそのように伝えたいですし、高齢者にもそのように伝えたいです。何歳であってもがんばることは可能だと思います。

フェルトセンスと体験過程 (一心塾だより 第27号)

 「よくわからないけど、何だかモヤモヤするような感じが胸の奥の方にある」というように、フェルトセンスがすでに感じられているとき、フォーカシングの手順としては、それがどんな事柄と関連したフェルトセンスなのか問いかけたり探ったりしてみます。また、そのモヤモヤの位置や大きさ、形、色、材質などを確認していき、取り扱いやすい一塊になってきたら、それが何を自分に伝えようとしているのかを、フェルトセンスの立場に立って推察してみます。そのようにして、そのフェルトセンスとの良い付き合い方ができるようになれば、からだ全体がいい感じになります。

 私たちのからだは常に何かを感じています。この「感じ」、別の言い方では「今体験していること」のことを「体験過程」とフォーカシングでは言います。

 体験過程を、例えば億万のプランクトンが漂う海のようなものとイメージしてみましょう。暑さが続いて海の環境が少し変化し、一部のプランクトンが死にかかって海が変色しています。ちょっと様子が変だとある女性が気づいて、海に声をかけたら、瀕死のプランクトンが集まってフェルトセンスが形成されました。彼女が「どうして欲しいの?」とフェルトセンスに尋ねたら、「冷やしてほしい」と訴えているような気がしました。彼女が大きな氷で海を冷やすと、海は元の輝く青さを取り戻しました。

 フェルトセンスは、体験過程に意識を向け「最近どう?」と声をかけ、いろいろ話を聴くことでようやく形成されます。常にからだのどこかに存在しているわけではないのです。一方、体験過程は私たちの存在の基本です。自分と関係しているあらゆる対象に反応して、暗黙の意味を宿しています。体験過程は敢えて言えば神のような存在ですが、フェルトセンスは体験過程から生まれた子どものような存在で、駄々をこねたり、拗ねたりして甘えています。

 日頃からセルフ・フォーカシングなどで体験過程と向き合っている人は、フェルトセンスを経由しなくても、体験過程の暗黙の意味から言語的に意味を抽出できるのではないかと私は考えています。あるいは体験過程をフェルトセンスではなくイメージや絵、物語などに一旦置き換えてから意味を見出すことも可能でしょう。

 ですからフォーカシングにおいて大事なのは、フェルトセンスを見つけることではなく、何かについて、なんでも良いのですが、体験過程尺度が深まるように話すこと、自己探求することであり、相手の体験過程尺度が深まるような聴き方、応答の仕方をすることであると言えるでしょう。

 

 

 

環境への甘え

 一人の人間にとって、自分以外のすべてのものは「環境」である。例えば口うるさい親がいるとしたら、それも環境である。もちろん家が裕福であるとか、貧乏であるとか、そういうことも環境である。環境とは私たちが「付き合っていく」対象である。

 「自分以外のすべて」と言ったが、実は自分の容姿とか、体質、嗜好、考え方の癖なども「付き合っていく対象」という意味では環境である。

 環境はなかなか変えがたいものではあるけれども、きちんと向き合い、付き合い方を工夫することで案外変化して、良い環境になっていったりもする。素顔が少々気に入らなくても、化粧によってお気に入りの自分になれるし、口うるさい親に対して、少しやさしく接するようにしたら、うるさくなくなるかもしれないのである。

 環境は甘えの対象になりやすい。裕福な家庭に生まれ育った人が、貧乏な暮らしをせざるを得なくなったとき、そのように仕向けた存在(家族?会社?、あるいは国?)に愚痴を言うことになるだろう。甘えないとは、与えられた環境に向き合い、なんとか工夫しながら生きていくことである。また、今が楽な環境であるなら、その環境に甘えていられる自分を自覚し、厳しい環境に生きる人々を思いやることである。

 

 

「向き合う」ということ

 ヨーガのアーサナ(ポーズ)を行うときに、「一番刺激のあるところに集中します」と指導してたのだが、今日から「一番刺激のあるところに向き合います」と、言い方を改めることにした。

 「意識を向ける」という意味では両者は同じことなのだが、「集中」の対象がどちらかというと事柄やモノであるのに対して、「向き合う」対象は人、生きもの、事柄になるだろう。アーサナの最中は刺激を生じている筋肉に意識を向けているが、筋肉をモノと捉えれば「集中」で良いだろう。しかしアーサナの目的は筋肉の状態をより良く変化させることである。どちらかといえば筋肉を「生きもの」として捉えて、その意向を探りながら丁寧に対応していくことが求められる。ならば「向き合う」という言葉を使ったほうがしっくりくる。

 向き合うことによって、何かの変化が生じる。生きているもの同士が向き合うのだから、そこには何らかの相互作用がある。こちらが相手をどうにかしてやろうという意図を持っていれば、相手はきっと抵抗するだろう。こちらが聴く姿勢を持てば、相手は心を開くだろう。

 アーサナのときは筋肉または身体という生きものに耳を傾けるのである。

 同様に瞑想のときは、心という生きものに向き合う。こちらはだいぶん手強い。しかし時間を掛けてゆっくりと、ただゆったり向き合うのが良いだろう。お互いが心を開くのが良いだろう。そして何年も瞑想を続けているうちに、私たちは心と仲良くできるようになる。

 考えてみれば、カウンセリングもそのように向き合うことである。それ以外の何者でもないのかもしれない。

あなたはどう変わりたいのか?

「教育は変化を求める」という命題をもう少し考えてみたい。

 変化を求めるのが、他者や組織であればきついストレスを感じることになる。時々は暴力を伴うこともある。学校で体罰、会社でパワハラが無くならないのは、変化を求めているからに他ならない。もし、変化を求めるのが他者や組織ではなくて、自分自身であれば様相は大きく変わるだろう。

 その場合、教育者は「あなたはどう変わりたいのか?」と問うことが重要になる。そう考えると、今までの教育は「あなたは、こう変わらなければならない」という押しつけがあったことになる。この「こう」とは、文科省が決めたことかもしれないし、学校ごとの、あるいは会社などの組織の決めたことであるだろう。そこには文科省、学校、組織の都合というものが見え隠れする。決して個人の都合ではない。そこには、「個人の都合なんてわがままなものに決まっている」という前提が存在する。それでは、教育は悪い意味での「宗教」に過ぎない。

 「あなたはどう変わりたいのか?」と問うときに、個人の中に主体性が生じる。そして出てきた答えに対して、それがどこかから借りてきた理想を語るようであれば、教育者は「本当にそれがあなたの求めることなのか?」と何度も突き返して吟味させる必要があるだろう。その人のからだから出てきた言葉であり、教育者も本当に納得できる答えでなければ「それで良い」と言ってはならないのである。この問答の最中にすでにその人は最初の変化を遂げるだろう。

 もし、「自分はこのままで良い」という人がいたら、叱り飛ばさなければならない。その人はからだの意向を無視している。生きるということに対して高をくくってはいけない。からだは生きよう、変化しようとしているのだ。その変化の方向性を意識の方でも理解しないと、うまく変化していかない。教育者はそのへんの手助けをしてやるべき存在ではないだろうか。