from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

フルーツイメージ法

「桃イメージ法」という、トラウマケアの方法をフォーカシングにもとづいて開発したのだが、これは僕が「心は桃のようなもの」という詩を作ったのがきっかけ。でもあれから色んな人に、「心を果物にたとえたら何?」と尋ねたら、「みかん」「りんご」「いちご」といろんな答えが返ってきた。中には「栗(イガイガの)」とか「ぶどう」とか言う人もいて、この問いかけは相当おもしろいと思う。だから今は「フルーツイメージ法」と名前を変えている。

 で、肝心なのは、「あなたの心の果物は、今どんな状態?」と尋ねること。

 トラウマはなかなか面と向き合うことが難しいのだけれど、果物の一部が傷んだような状態としてイメージするぶんには、割りと容易に向き合える。そして、

「本物の果物は、いったん傷んだらもとに戻らないけど、心の果物は、また元のピカピカの状態に戻ります。どうしてあげたらいいと思いますか。たとえば、手で暖めるとか、綿で包むとか。」と問うと、いろいろアイデアが出てくる。どうしようもないと思っていたトラウマが、扱い可能なもの、つまり自己コントロールできるものなのだという体験がとても大事だ。

 そもそもトラウマは、心の中で時空間を超えて存在してしまう。よくわからないきっかけで、生々しく何年も前のことが甦って自分を萎縮させてしまうのだから。日にち薬が効かないのである。それが果物という馴染み深いもののなかの”傷み”として位置づけられることで、日にち薬が効くキズになるのである。

 

心は桃のようなもの

 

心は桃のようなもの

皮は薄く実は柔らかい

大切にていねいに扱わないと

茶色く腐ってもてあます

やさしく扱う人にだけ

甘いその実を差し上げる

      (2001年)

当たること、当たられること

 家族や友だちにグチられたり、感情的に当たられたりすることは良くあると思います。あるいは、あなたがそのようにしているご本人かもしれませんね。

   昔、私はある友人からよく当たられることがありました。私が担当している役割をマジメにやっていないとか、どうせどうでもいいと思ってやっているんだろうとか、そんな言い方です。「そんなことない、ちゃんとやっているし、どうでもいいなんて思っていない」と反論して、それ以上言い合いにならないよう席を離れるのですが、何日かするとまた同じような会話が繰り返されます。

   同じ会話が繰り返されるのは、相手がこちらとの会話に満足していないということです。何か大事なことを伝えきれていないし、こちらもその大事なところを理解できていないのです。彼は私の役割のことを言っていますが、本当は私との関係性について、言葉にならないモヤモヤを抱えているのではないかと感じていました。

   でもそのことを彼との間で話題に取り上げることはしませんでした。関係性を言葉で説明しようとすると、大変ややこしいことになり、溝を深めることのほうが多いように思います。その代わりに、私の役割に関して、実行する前に彼の考えを聞いてみることにしました。彼は自分の考えを述べましたが、それは私の今までのやり方と大きく変わるものではありませんでした。しかし、それ以降彼は私に当たらなくなりました。

 彼は、もっと自分を尊重して欲しいという気持ちを持っていたのだと思います。でもそういうことは、なかなか言えないものです。言えば「お願いする」立場になってしまいますから。あくまでも私の方が察して自発的に彼を尊重するのでなければ、彼の気持ち完全には満たされないのです。これが甘えの一つの形です。言えば不利になるから、言わずに察せられるのを待つということです。そしてそれは頭で計算して行われることではなく、気持ちの中で何となく選択してしまうので、無意識的になりがちです。

 皆さんは疑問に思うかもしれません。察する分には相手は満足するかもしれないけれど、自分はいつも気を使わなくてはならないではないかと。それは面倒だし、損なことだと。

 ここはちょっと常識をひっくり返して考えなければなりません。関係改善のために「察する」という先手を打てる人が、信頼を得て大きな得をすると考えてはいかがでしょうか。

 グチる人・当たる人は、相手に対し「わかってよ、察してよ、受けとめてよ」という気持ちに自分で気づくこと無く、ただ甘えています。そして出てくる言葉は攻撃、批判です。そんな言葉にもう傷つく必要はありません。

 また、もしあなたがグチる人・当たる人であるなら、ぜひ自分の甘えに気づいてください。そのような甘え方をしても、期待に応えて察してくれる人はごく僅かであり、むしろマイナスの結果にしかならないことは、すでに十分知っていることではないでしょうか。

ヨーガの「戒(かい)」について

 ヨーガのアーサナ(ポーズ)、呼吸法、瞑想についてはよく知られていますが、実はヨーガの修行にはその前段に「戒」があります。禁戒と勧戒に分かれ、全部で10項目ありますが、今回は禁戒の第一番「非暴力」について考えてみましょう。ごく当たりまえの道徳なのですがとても合理的な心の健康法でもあります。

 非暴力は、言葉や態度による暴力も含みます。暴力的なことを心で思うこともできるだけ控えます。思っているうちに必ず態度や言葉に出てしまいますから。

   また自己卑下も自分に対する暴力です。誰かに自分の考えを押し付けるのも暴力です。そう考えていくと、私たちの身の回りには暴力が溢れています。

   戒というものは完全に守ることはできません。日々思い出して内省の糧にするものと捉えた方が良いと思います。また、戒を持つことを「不自由」と考えるのは逆です。私たちの心は戒から離れるほど不満や怒り、憎しみが多くなり、不自由になっていきます。

   小さな暴力を他者や自分に対して行っていれば、そのうちに暴力に対して鈍感になってしまいます。暴力は確実に連鎖し、最終的に自分と周りの人たちを不幸にします。
「非暴力」の戒に徹する人は、全ての人、すべての生き物に愛されるとヨーガの古典には書いてあります。それは当然そうでしょう。徹することは至難ですが、目指してみませんか。

 ところで、ちょっとひどいことを言われたとか、傷つくことは日常多々ありますが、その場合はどうしたら良いのでしょうか。私は「こころの天気」を描くことや「フルーツイメージ法」をおすすめします。自分で自分の心をケアする習慣を持てば、暴力を暴力で返すという反射的な愚行を避けられるのではないでしょうか。そしてできるだけ、相手に対して親切に接することで、再び傷つけられることは減るでしょう。

 

メメントモリ

 メメントモリとは「いつか死ぬことを忘れるな」という意味のフランス語です。30年前に私もインドでヨーガの師に言われたことがあります、「自分の葬式のことを思え」と。それから仏教僧になったこともあって、死のことはずっと思索を続けてきました。そして、生というのは「死」というキャンバスに描かれた絵のようなもの、あるいは静寂というバックグラウンドに流れる音楽のようなものと捉えられるようになってきました。

 このことは当然、生き方に影響を与えます。もし今の生が描かれているキャンバスの生地が無色でなく、たとえば黄色で、それには「幸せな生活」という意味を込められているなら、その上に描かれる絵は、もっと幸せか、逆に不幸でなければ、絵が目立ちません。おかしな喩えかもしれませんが、多くの人の人生のキャンバスは黄色なのではないかと思います。黄色いキャンバス上では、死は不幸の象徴として黒く描かれます。余計目立ってしまうので、巧妙にぼやかされ、そのことでさらに黒を怖れるようになってはいないでしょうか。メメントモリによってしか、キャンバスの生地が無色になることはないでしょう。そこでは死は無色です。無色のキャンバス上でなら、どんな生の表現もありのままに受け取り、輝かせることができます。どんな悲惨な出来事も目を背けずにいることができます。

 ところで、死んだら私たちはどこへ行くのでしょうか。宗教ではいろいろ言いますし、前世を記憶する子どももいるのだそうですが、誰かにとって事実であったことでも、一般的な真実として受け取るのは早計に思います。どんな言説にも一応耳を傾けた上で、自分が一番気が楽になるものを信じておくのが心理的な安定を保つ上では良いのではないかと思います。私は好きな場所、好きな時代(過去も含め)に生まれ変われると勝手な想像をして楽しんでいます。

 一つ確実なのは、死んでも誰かの記憶の中で故人は生き続けるということです。だから残された者が、良いように思い出してあげることで故人は良い人になります。またそうしてあげた方が思い出す側も心が軽くなるというものです。お墓や位牌は、故人を思い出すのに良いきっかけとなりますが、遺品や写真でもその意味は同じでしょう。

 そう考えると生きている内は、周囲の人に対して少しでも良い記憶として残るように努めたほうが良いようにも思うのですが、結果を求めて何かをするというのは、特にヨーガではもっとも嫌うことです。メメントモリを知る人は、その日その日を誠実に生きるのみです。最後にマハトマ・カンジーの言葉を送ります。

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」

気づきとフィードバック

マインドフルネス・ヨーガでは、アーサナ(ポーズ)を行うときに、最初に刺激のあるところの感じに気づくようにします。たとえば図の前屈のアーサナでは、膝の裏、太ももの裏、腰などに刺激がありますので、最初は自然とそこに意識が行きます。頑張って伸ばそうとするのは厳禁です。ただその部分の感じに気づいています。するとだんだん筋肉が緩んできて、体がアーサナに馴染んできます。

 次に全身の感じに気づくようにします。気づかないところで腹筋や腕に力が入っていたりするものですから、そうと気づいたら緩めるようにします。ここに「気づき」と「フィードバック」があります。つまり、緊張に気づいたから「緩める」というフィードバックが行われたということです。

 一般的にマインドフルネスは「気づき」のみが強調されます。たとえば、「外で鳥が鳴いている」とか「右肩が凝っている」とか。しかし、ヨーガを行っているときのように、能動的に何か動作をしているときには、必ず気づきにフィードバックが伴います。それによって初めて理に叶った動作ができるのです。ヨーガの場合は「動作」というより、「美しい姿勢」といった方が良いでしょう。全身の隅々にまで、気づきが行き渡ることで、隙きのない美しいアーサナが完成します。それは体の硬さには関係ありません。硬いなりに美しい姿勢になることはできるのです。

 全身の隅々に気づいて、なおかつフィードバックさせるときに、完全にそれを意識的に行うことは恐らくできないと思います。半分自動的にそれは為されます。ですから気づいてさえいれば、半分は美しい姿勢に至るということになります。でもそれで良いのです。意識的なフィードバックは過剰になりやすいでしょうから。ということで、やはり「気づき」が大事なのですが、ここで申し上げたいのは、フィードバックは半自動的に起こっているといこと。それによって美しい”表現”が可能になるということです。

 初期仏教経典に『四念処経』というマインドフルネスを説いた経典があり、「修行者は、からだにおいてからだを観察する」という表現が出てきます。観察とは「気づき」と読み替えて良いでしょう。「からだにおいて」というところが分かりにくいところですが、恐らく、ここで述べたように、半分自動的にフィードバックが起こるような気づきのことを言っているのだと思います。そしてマインドフルネスの理解には、ここは非常に重要だと思うのです。

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一心塾だより 第4号

☆リスニングについて☆

 3月19,20日と二日に渡ってみっちりフォーカシング・サンガを行いました。多分にリスニングの訓練にもなったと思います。フォーカシングの場面と通常の相談場面とは趣は違うのですが、フォーカシング的な聴き方が活かせる部分は多くあります。箇条書きにしてみましょう。
 
1,伝え返し。相手の話の中の大事な言葉を捉え、それを伝え返します。やはり気持ちを語る言葉はきっちり伝え返す必要があります
 
2,まとめの伝え返し。話が一区切りしたときは、「ここまでの話をちょっとまとめますね」と伝え返します。それけで相手のフェルトセンスは少し進展し、相手の話も新たな局面に展開していきます。
 
3,「何か、、」に反応する。「何か、、」とか「何というか、、」とか話し手がそういう言い回しをしたときはフェルトセンスに触れるチャンスなので、性急に言葉にしようとする相手をちょっと制止し、「そこは大事なところのようなので、ゆっくり進みませんか」などと言葉掛けします。これによって話の流れがぐっと深まります。話し手は必ず「何か、、」と言うわけではないですが、フェルトセンスを濃厚に漂わせる言い回しに対しては敏感に反応するようにします。話の内容に気を取られていると、これが難しくなります。常にフェルトセンスを感じながら聴くことを忘れないようにします。

一心塾だより 第3号

 
 メメントモリとは「いつか死ぬことを忘れるな」という意味のラテン語です。30年前に私もインドでヨーガの師に言われたことがあります、「自分の葬式のことを思え」と。それから仏教僧になったこともあって、死のことはずっと思索を続けてきました。そして、生というのは「死」というキャンバスに描かれた絵のようなもの、あるいは静寂というバックグラウンドに流れる音楽のようなものと捉えられるようになってきました。
 このことは当然、生き方に影響を与えます。もし今の生が描かれているキャンバスの生地が無色でなく、たとえば黄色で、それには「幸せな生活」という意味を込められているなら、その上に描かれる絵は、もっと幸せか、逆に不幸でなければ、絵が目立ちません。おかしな喩えかもしれませんが、多くの人の人生のキャンバスは黄色なのではないかと思います。黄色いキャンバス上では、死は不幸の象徴として黒く描かれます。余計目立ってしまうので、巧妙にぼやかされ、そのことでさらに黒を怖れるようになってはいないでしょうか。メメントモリによってしか、キャンバスの生地が無色になることはないでしょう。そこでは死は無色です。無色のキャンバス上でなら、どんな生の表現もありのままに受け取り、輝かせることができます。どんな悲惨な出来事も目を背けずにいることができます。
 ところで、死んら私たちはどこへ行くのでしょうか。宗教ではいろいろ言いますし、前世を記憶する子どももいるのそうですが、誰かにとって事実であったことでも、一般的な真実として受け取るのは早計に思います。どんな言説にも一応耳を傾けた上で、自分が一番気が楽になるものを信じておくのが心理的な安定を保つ上では良いのではないかと思います。私は好きな場所、好きな時代(過去も含め)に生まれ変われると勝手な想像をして楽しんでいます。
 一つ確実なのは、死んでも誰かの記憶の中で故人は生き続けるということです。から残された者が、良いように思い出してあげることで故人は良い人になります。またそうしてあげた方が思い出す側も心が軽くなるというものです。お墓や位牌は、故人を思い出すのに良いきっかけとなりますが、遺品や写真でもその意味は同じでしょう。
 そう考えると生きている内は、周囲の人に対して少しでも良い記憶として残るように努めたほうが良いようにも思うのですが、結果を求めて何かをするというのは、特にヨーガではもっとも嫌うことです。メメントモリを知る人は、その日その日を誠実に生きるのみです。最後にマハトマ・カンジーの言葉を送ります。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」