from 一心塾 ー 心身教育研究所 ー

カウンセリング、フォーカシング、仏教、ヨーガ

メメントモリ

 メメントモリとは「いつか死ぬことを忘れるな」という意味のフランス語です。30年前に私もインドでヨーガの師に言われたことがあります、「自分の葬式のことを思え」と。それから仏教僧になったこともあって、死のことはずっと思索を続けてきました。そして、生というのは「死」というキャンバスに描かれた絵のようなもの、あるいは静寂というバックグラウンドに流れる音楽のようなものと捉えられるようになってきました。

 このことは当然、生き方に影響を与えます。もし今の生が描かれているキャンバスの生地が無色でなく、たとえば黄色で、それには「幸せな生活」という意味を込められているなら、その上に描かれる絵は、もっと幸せか、逆に不幸でなければ、絵が目立ちません。おかしな喩えかもしれませんが、多くの人の人生のキャンバスは黄色なのではないかと思います。黄色いキャンバス上では、死は不幸の象徴として黒く描かれます。余計目立ってしまうので、巧妙にぼやかされ、そのことでさらに黒を怖れるようになってはいないでしょうか。メメントモリによってしか、キャンバスの生地が無色になることはないでしょう。そこでは死は無色です。無色のキャンバス上でなら、どんな生の表現もありのままに受け取り、輝かせることができます。どんな悲惨な出来事も目を背けずにいることができます。

 ところで、死んだら私たちはどこへ行くのでしょうか。宗教ではいろいろ言いますし、前世を記憶する子どももいるのだそうですが、誰かにとって事実であったことでも、一般的な真実として受け取るのは早計に思います。どんな言説にも一応耳を傾けた上で、自分が一番気が楽になるものを信じておくのが心理的な安定を保つ上では良いのではないかと思います。私は好きな場所、好きな時代(過去も含め)に生まれ変われると勝手な想像をして楽しんでいます。

 一つ確実なのは、死んでも誰かの記憶の中で故人は生き続けるということです。だから残された者が、良いように思い出してあげることで故人は良い人になります。またそうしてあげた方が思い出す側も心が軽くなるというものです。お墓や位牌は、故人を思い出すのに良いきっかけとなりますが、遺品や写真でもその意味は同じでしょう。

 そう考えると生きている内は、周囲の人に対して少しでも良い記憶として残るように努めたほうが良いようにも思うのですが、結果を求めて何かをするというのは、特にヨーガではもっとも嫌うことです。メメントモリを知る人は、その日その日を誠実に生きるのみです。最後にマハトマ・カンジーの言葉を送ります。

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」

気づきとフィードバック

マインドフルネス・ヨーガでは、アーサナ(ポーズ)を行うときに、最初に刺激のあるところの感じに気づくようにします。たとえば図の前屈のアーサナでは、膝の裏、太ももの裏、腰などに刺激がありますので、最初は自然とそこに意識が行きます。頑張って伸ばそうとするのは厳禁です。ただその部分の感じに気づいています。するとだんだん筋肉が緩んできて、体がアーサナに馴染んできます。

 次に全身の感じに気づくようにします。気づかないところで腹筋や腕に力が入っていたりするものですから、そうと気づいたら緩めるようにします。ここに「気づき」と「フィードバック」があります。つまり、緊張に気づいたから「緩める」というフィードバックが行われたということです。

 一般的にマインドフルネスは「気づき」のみが強調されます。たとえば、「外で鳥が鳴いている」とか「右肩が凝っている」とか。しかし、ヨーガを行っているときのように、能動的に何か動作をしているときには、必ず気づきにフィードバックが伴います。それによって初めて理に叶った動作ができるのです。ヨーガの場合は「動作」というより、「美しい姿勢」といった方が良いでしょう。全身の隅々にまで、気づきが行き渡ることで、隙きのない美しいアーサナが完成します。それは体の硬さには関係ありません。硬いなりに美しい姿勢になることはできるのです。

 全身の隅々に気づいて、なおかつフィードバックさせるときに、完全にそれを意識的に行うことは恐らくできないと思います。半分自動的にそれは為されます。ですから気づいてさえいれば、半分は美しい姿勢に至るということになります。でもそれで良いのです。意識的なフィードバックは過剰になりやすいでしょうから。ということで、やはり「気づき」が大事なのですが、ここで申し上げたいのは、フィードバックは半自動的に起こっているといこと。それによって美しい”表現”が可能になるということです。

 初期仏教経典に『四念処経』というマインドフルネスを説いた経典があり、「修行者は、からだにおいてからだを観察する」という表現が出てきます。観察とは「気づき」と読み替えて良いでしょう。「からだにおいて」というところが分かりにくいところですが、恐らく、ここで述べたように、半分自動的にフィードバックが起こるような気づきのことを言っているのだと思います。そしてマインドフルネスの理解には、ここは非常に重要だと思うのです。

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一心塾だより 第4号

☆リスニングについて☆

 3月19,20日と二日に渡ってみっちりフォーカシング・サンガを行いました。多分にリスニングの訓練にもなったと思います。フォーカシングの場面と通常の相談場面とは趣は違うのですが、フォーカシング的な聴き方が活かせる部分は多くあります。箇条書きにしてみましょう。
 
1,伝え返し。相手の話の中の大事な言葉を捉え、それを伝え返します。やはり気持ちを語る言葉はきっちり伝え返す必要があります
 
2,まとめの伝え返し。話が一区切りしたときは、「ここまでの話をちょっとまとめますね」と伝え返します。それけで相手のフェルトセンスは少し進展し、相手の話も新たな局面に展開していきます。
 
3,「何か、、」に反応する。「何か、、」とか「何というか、、」とか話し手がそういう言い回しをしたときはフェルトセンスに触れるチャンスなので、性急に言葉にしようとする相手をちょっと制止し、「そこは大事なところのようなので、ゆっくり進みませんか」などと言葉掛けします。これによって話の流れがぐっと深まります。話し手は必ず「何か、、」と言うわけではないですが、フェルトセンスを濃厚に漂わせる言い回しに対しては敏感に反応するようにします。話の内容に気を取られていると、これが難しくなります。常にフェルトセンスを感じながら聴くことを忘れないようにします。

一心塾だより 第3号

 
 メメントモリとは「いつか死ぬことを忘れるな」という意味のラテン語です。30年前に私もインドでヨーガの師に言われたことがあります、「自分の葬式のことを思え」と。それから仏教僧になったこともあって、死のことはずっと思索を続けてきました。そして、生というのは「死」というキャンバスに描かれた絵のようなもの、あるいは静寂というバックグラウンドに流れる音楽のようなものと捉えられるようになってきました。
 このことは当然、生き方に影響を与えます。もし今の生が描かれているキャンバスの生地が無色でなく、たとえば黄色で、それには「幸せな生活」という意味を込められているなら、その上に描かれる絵は、もっと幸せか、逆に不幸でなければ、絵が目立ちません。おかしな喩えかもしれませんが、多くの人の人生のキャンバスは黄色なのではないかと思います。黄色いキャンバス上では、死は不幸の象徴として黒く描かれます。余計目立ってしまうので、巧妙にぼやかされ、そのことでさらに黒を怖れるようになってはいないでしょうか。メメントモリによってしか、キャンバスの生地が無色になることはないでしょう。そこでは死は無色です。無色のキャンバス上でなら、どんな生の表現もありのままに受け取り、輝かせることができます。どんな悲惨な出来事も目を背けずにいることができます。
 ところで、死んら私たちはどこへ行くのでしょうか。宗教ではいろいろ言いますし、前世を記憶する子どももいるのそうですが、誰かにとって事実であったことでも、一般的な真実として受け取るのは早計に思います。どんな言説にも一応耳を傾けた上で、自分が一番気が楽になるものを信じておくのが心理的な安定を保つ上では良いのではないかと思います。私は好きな場所、好きな時代(過去も含め)に生まれ変われると勝手な想像をして楽しんでいます。
 一つ確実なのは、死んでも誰かの記憶の中で故人は生き続けるということです。から残された者が、良いように思い出してあげることで故人は良い人になります。またそうしてあげた方が思い出す側も心が軽くなるというものです。お墓や位牌は、故人を思い出すのに良いきっかけとなりますが、遺品や写真でもその意味は同じでしょう。
 そう考えると生きている内は、周囲の人に対して少しでも良い記憶として残るように努めたほうが良いようにも思うのですが、結果を求めて何かをするというのは、特にヨーガではもっとも嫌うことです。メメントモリを知る人は、その日その日を誠実に生きるのみです。最後にマハトマ・カンジーの言葉を送ります。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」

一心塾だより 第2号

ヨーガの「戒(かい)」について
 ヨーガのアーサナ(ポーズ)、呼吸法、瞑想についてはよく知られていますが、実はヨーガの修行にはその前段に「戒」があります。禁戒と勧戒に分かれ、全部で10項目ありますが、今回は禁戒の第一番「非暴力」について考えてみましょう。ごく当たりまえの道徳なのですがとても合理的な心の健康法でもあります。
 非暴力は、言葉や態度による暴力も含みます。暴力的なことを心で思うこともできるけ控えます。思っているうちに必ず態度や言葉に出てしまいますから。
   また自己卑下も自分に対する暴力です。誰かに自分の考えを押し付けるのも暴力です。そう考えていくと、私たちの身の回りには暴力が溢れています。
   戒というものは完全に守ることはできません。日々思い出して内省の糧にするものと捉えた方が良いと思います。また、戒を持つことを「不自由」と考えるのは逆です。私たちの心は戒から離れるほど不満や怒り、憎しみが多くなり、不自由になっていきます。
   小さな暴力を他者や自分に対して行っていれば、そのうちに暴力に対して鈍感になってしまいます。暴力は確実に連鎖し、最終的に自分と周りの人たちを不幸にします。
「非暴力」の戒に徹する人は、全ての人、すべての生き物に愛されるとヨーガの古典には書いてあります。それは当然そうでしょう。徹することは至難ですが、目指してみませんか。
 ところで、ちょっとひどいことを言われたとか、傷つくことは日常多々ありますが、その場合はどうしたら良いのでしょうか。私は「こころの天気」(http://www.sinsined.com/tenki)を描くことや「フルーツイメージ法」(http://www.sinsined.com/single-post/fruit)をおすすめします自分で自分の心をケアする習慣を持てば、暴力を暴力で返すという反射的な愚行を避けられるのではないでしょうか。そしてできるけ、相手に対して親切(http://www.sinsined.com/single-post/kind)に接することで、再び傷つけられることは減るでしょう。

一心塾だより 第1号

 皆さんこんにちは。一心 長の土江正司です。この度、メールマガジン一心よりを始めることにしました。ヨーガ、フォーカシング、仏教など、心身の健康に関する話題、一心(心身教育研究所)が主催または関係するイベントの案内、ホームページ上で更新しているブログの紹介などを、月2回程度お届けして行く予定です。
 ご購読はもちろん無料です。ご希望の方は、このメールに「購読希望」と書いて、ご返信いたければ登録完了です。また、一心のホームページ(http://www.sinsined.com/eventからもご登録と解除が可能です。


 「一心」とは、目標に向かって集中していくことであり、仲間が心を合わせることでもあります。また、私たちが心の底から願っていることも、実は皆共通しているのではないかと私は考えていますが、これも「一心」ですね。でもそこにたどり着くには、深い洞察が必要です。一心よりがその一助になれれば幸いです。

ぴったり言葉のワーク

 毎月行っているフォーカシングの研修会、「フォーカシング・サンガ」では、最近「ぴったり言葉のワーク」を毎回行っています。フォーカシング・サンガでは8人位で輪になって座り、その中で語り手と聴き手の二人が、ちょっと向き合うようにして座り、フォーカシングのセッションをします。他のメンバーはそれを傾聴します。語り手は、何を語ってもよいのですが、聴き手がうまく伝え返しを行うことで、だんだんに、語り手が一番言いたかったところ、「ぴったり言葉」にたどり着いていきます。
 最終的に、聴き手はその「ぴったり言葉」をメモ用紙に書き留め、それを読み上げた上で聴き手に手渡し、こう尋ねます、「私は、この言葉は“ぴったり度”◯◯%くらいだと思いますが、いかがでしょうか」。語り手は、自分の感覚でぴったり度を答えます。
 語った言葉が自分の感覚に合っているかどうか、合っているとしたら何%くらい合っているのか、このような感覚と表現のリアルタイムな照合作業が「フォーカシング」です。表現は言葉に限りません。動作でも絵でも良いのですが、私たちは普段、言葉を表現手段として最も多用するので、やはり感覚に合った言葉を使えるように普段から少しでも意識していることが大事だと思います。
 不思議なもので、聴き手の方も、語り手の発したぴったり言葉が何%くらいのぴったり度なのかが、何となくわかります。何となく分かるから良い聴き手にもなれます。
 「ぴったり言葉」は、最初から語り手の意識の中にあったわけではありません。語る内にだんだん焦点が絞られてくるのです。あるいは思いもしなかった言葉が飛び出して、それがとてもぴったりだったりします。また、このようにして言葉が紡がれることで、語り手の気持ちが一歩進展します。そしてなにか新しい決意のようなものが生まれるのです。
 たとえば、最近、私がフォーカシング・サンガのなかで他のメンバーに聴いてもらいながらたどり着いた言葉は、「誠意を尽くしていこう」でした。今、仕事を進める上で困難なことがあり、もやもやしていたのですが、この言葉で光が見えた気がしました。それこそ相手の方が誠意を持って聴いてくれて、またメモ用紙に書いてくれた文字は、私にとっての宝物ですので、机の前に貼ってあります。これを眺めながら、しばらく困難な仕事に向き合っていけそうです。