一心塾だより 第4号
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皆さんこんにちは。一心塾 塾長の土江正司です。この度、メールマガジン「一心塾だより」
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ぴったり言葉のワーク
毎月行っているフォーカシングの研修会、「フォーカシング・サンガ」では、最近「ぴったり言葉のワーク」を毎回行っています。フォーカシング・サンガでは8人位で輪になって座り、その中で語り手と聴き手の二人が、ちょっと向き合うようにして座り、フォーカシングのセッションをします。他のメンバーはそれを傾聴します。語り手は、何を語ってもよいのですが、聴き手がうまく伝え返しを行うことで、だんだんに、語り手が一番言いたかったところ、「ぴったり言葉」にたどり着いていきます。
最終的に、聴き手はその「ぴったり言葉」をメモ用紙に書き留め、それを読み上げた上で聴き手に手渡し、こう尋ねます、「私は、この言葉は“ぴったり度”◯◯%くらいだと思いますが、いかがでしょうか」。語り手は、自分の感覚でぴったり度を答えます。
語った言葉が自分の感覚に合っているかどうか、合っているとしたら何%くらい合っているのか、このような感覚と表現のリアルタイムな照合作業が「フォーカシング」です。表現は言葉に限りません。動作でも絵でも良いのですが、私たちは普段、言葉を表現手段として最も多用するので、やはり感覚に合った言葉を使えるように普段から少しでも意識していることが大事だと思います。
不思議なもので、聴き手の方も、語り手の発したぴったり言葉が何%くらいのぴったり度なのかが、何となくわかります。何となく分かるから良い聴き手にもなれます。
「ぴったり言葉」は、最初から語り手の意識の中にあったわけではありません。語る内にだんだん焦点が絞られてくるのです。あるいは思いもしなかった言葉が飛び出して、それがとてもぴったりだったりします。また、このようにして言葉が紡がれることで、語り手の気持ちが一歩進展します。そしてなにか新しい決意のようなものが生まれるのです。
たとえば、最近、私がフォーカシング・サンガのなかで他のメンバーに聴いてもらいながらたどり着いた言葉は、「誠意を尽くしていこう」でした。今、仕事を進める上で困難なことがあり、もやもやしていたのですが、この言葉で光が見えた気がしました。それこそ相手の方が誠意を持って聴いてくれて、またメモ用紙に書いてくれた文字は、私にとっての宝物ですので、机の前に貼ってあります。これを眺めながら、しばらく困難な仕事に向き合っていけそうです。
心の成長
皆さま、ゴールデンウィークをいかがお過ごしですか。
私はなんの予定も立てず、ふらっと山を歩いてみたり、読書したり、畑をいじったり、長めの瞑想に取り組んだりと、のんびり過ごしています。
新緑の山で風がそよぐと、とてもやさしい気持ちになります。畑にまいた種が芽を出し、伸びていくと成長の喜びを感じます。でも、自分の心は成長しているのだろうかと急に不安になったりするのも、のんびりしているときにありがちなことのようです。
心の成長とは何か、3つ考えてみました。
1,欲求に気づき、自分でコントロールできる力の向上 (マインドフルネス)
2,周囲に親切に平等に接する力の向上 (慈悲喜捨)
3,するべきことを知り、うまく対処する力の向上 (フォーカシング)
3つは互いに関わりあっていますが別々のことなので、バランス良く( )内の方法で育てる必要があると思います。これらを意識しているだけでも少しずつは向上するのではないでしょうか。
「慈悲喜捨」は、普通には「慈悲」と省略した言い方をしますが、正確には「慈悲喜捨」です。「慈しみ、共に悲しみ、共に喜び、冷静でいること(捨)」とでも解説したらいいでしょうか。慈悲喜捨はあまり人情ベタベタになることを戒めています。でないと誰にも何に対しても平等に接することはできないでしょうから。
さて、今月のフォーカシング・サンガです。
日時 5月7日(土)13:30〜16:30
場所 松江市総合福祉センター
定員 8名(要予約)
参加費 2,000円
次回予定 6月4日(土)場所、時間は同じです。
土江正司 tsuchie.shoji@gmail.com
心身教育研究所 http://sinsined.com/ ← 8月までの予定を掲載しています。
マインドフルネスとフォーカシング
この3月に創元社から『マインドフル・フォーカシング』という本が出た。アメリカのフォーカシング指導者でチベット仏教に造形の深いDavid Rome氏が満を持して著した本だ。私のフォーカシングの師匠である日笠摩子先生と友人の高瀬健一氏が訳してくださった。
マインドフルネスは身体、感覚、心、心の対象にひたすら注意深く気づいていく方法だ。そこには思考は介在しない。そして表現もしない。ただ気づくのである。一方フォーカシングはある事柄にまつわる独特の身体感覚(フェルトセンス)に気づき、そこから表現を開始する。うまく表現できればフェルトセンスは心地よい方向へ変化し、時には消滅する。
David Romeはマインドフル・フォーカシングを一人で瞑想的に行うフォーカシングとして実践しているようだ。やり方としてはまず、瞑想的にフェルトセンスに気づいて、そこからは思考モードを入れながらフェルトセンスの意味するところに閃いていくという方法である。
これは私も何十回とトライした方法ではあるが、あまりうまく行ったことがない。もちろんDavid Romeも難しさを指摘している。
マインドフルネスを深めていくと、それは思考とは水と油のように交じり合わないものであることがわかってくる。しかしフェルトセンスに気づくことは容易である。そして、ここはちょっとした発見なのだが、フェルトセンスへの気づきを深めていくと、それは表現することなしに変化し消滅していくのである。だからちょっとしたトラウマのような不快なフェルトセンスに悩まされいている場合にはこれだけで十分ということになる。これはフォーカシングの創始者ジェンドリンも予想しなかったことではないだろうか。
だが、やはり表現によるフェルトセンスの意味するところの理解は非常に重要であると思う。私たちは生き、その生き様を通して日々表現している。フォーカシングを知る人は今の生き方、今の表現が本当に自分本来のものであるかどうか常に、極端に言えば毎秒ごとに確認している。何かを考えたとしても、その考えがフェルトセンスを忠実に表現しているかどうかを必ず確認するのである。生きている人間にとって、これほど重要な事はない。もし一人フォーカシングするのであれば、絵を描きながら、あるいは文章を書きながらのほうがずっとやりやすいだろう。それどころか少しフォーカシングの心得があれば、絵を描くこと、文章を書くことがフォーカシング的にならない方が難しい。
しかしマインドフルネスはやはり仏教の根幹をなすものだけあって、死を見据えた修行なのだ。考えることさえも「苦」であることがゆくゆく体験される。すべてのものは生じては滅することを鋭い集中力を伴った観察力で見抜き、やがては生じるものが何も無い境地を目指すのであるから、マインドフルネスというのは恐ろしいほどに冷徹なのである。だがこれによって一切の悩みが消えることは確かである。
今私はマインドフルネスを突き進んでいるが、まだ当分生きなければならない。マインドフルネスとフォーカシングは車の両輪である。決して融合するものではなさそうだ。車の両輪として平行に回転してくれればいいのだが、もしかしたら別々の方向へ走りだしていけば、私の身は2つに引き裂かれてしまいかねない。そうなったら迷わず、マインドフルネスを取るだろう。フォーカシングがマインドフルネスについてきてくれる間、つまり私が迷いの中に生きている間は両輪となってくれるだろう。
ここで私は初期仏教が変遷を遂げて大乗仏教に至った経緯のことを思い出す。例えば浄土宗の根本経典である無量寿経に、「人々を皆救うまで私は解脱しない」という法蔵菩薩の決意が高らかに何度も繰り返される。如来にはならず菩薩に留まるぞという決意とも言える。法蔵さんもきっとフォーカシング的に生きられたのだろうなと勝手に親しみを感じる。